2014年6月29日日曜日

フランダースの野に

今年が第一次大戦開幕から百周年ということで、ヨーロッパでは記念や回顧の行事が続いており、昨日は大戦の引き金となったサラエボ事件(1914.6.28)がメディアに取り上げられた。大セルビア主義の虜になったセルビア青年がオーストリアの皇太子夫妻を暗殺したこの事件は現在でもセルビアでは英雄的行為と讃えられているという。その行為が死者一千万人の大戦争の口火を切ったとしても民族の大義のためなら許されるというセルビア人の評価は到底賛成できないが、21世紀の現在、セルビアがユーゴスラビアの盟主の地位から元の小国に戻った事実をセルビア人はどう評価するのだろうか。

第一次大戦の激戦地と言えば北仏のヴェルダンと並んでベルギーのイープル(英仏語。ベルギーではイーペル)が名高い。前者が独軍と仏軍の激戦地だったのに対し、後者は独軍と英軍の激戦地で、世界で最初にドイツ軍により毒ガス(最初は塩素ガス、ついでマスタードガス)が使用されたことで知られる(後者のイペリットガスはイープルにちなむ名前)。死者三十万人と言われるこの戦闘を記念してイープルに設置された戦争記念館の来訪者はしたがって主として英国人であり、展示品も英軍(及び独軍)関係が大半である。私が訪問した十数年前と異なり、去年あたりから( ? )、In  Flamnders Field 記念館と名乗っているようだ。それは英国人に膾炙されているマレー少佐の詩にちなんでいる。
「友よ、死者の叫びを聞け!(中略)。けれども我々はむなしくフランダースの野に横たわっている。」「友よ、受け継いでくれ! われわれのたたかいを!(中略)  もしも君たちが死に行くものへの誓いを破ったなら、我々は決して眠りにつかないだろう。ひなげしの花はフランダースの野に咲いても。」(ネルー 「父が子に語る世界史」)
ノルマンジー上陸作戦と同様、イープルは英国人にとって痛ましくも誇らしい地名なのである。
イートン校の壁には二つの大戦の戦没卒業生の氏名が刻印されている。大戦の休戦記念日(11月11日)には毎年アナウンサーはひなげしの花のバッジを胸につけて登場する)

イープルを私は勤務先の同僚のKさん、Mさん、Mさん三人と訪れたが、その後二人のMさんは鬼籍に入られた。御冥福を祈ります。


2014年6月26日木曜日

夢去りぬ

やっとと言うべきか、もうと言うべきか。日本のW杯は終わった。無論「もう」と残念に思う人が圧倒的だろうし、私も選手たちの無念を思いやるにやぶさかではない。ただ、日本に無関係の試合の勝敗までこれほど詳しく報道する必要があるのかと疑問に感じた。「やっと」とはその意味である。

むろん勝敗は時の運。しかし世界での日本の順位からすればこの結果は残念ながら驚くに当たらない。四年間の日本人選手の進歩は大きくとも、世界もまた進歩したのであろう。あまり見ていないのに大きなことは言えないが、せっかく長友らがボールを中央に送りこんでもそれを受ける強力なストライカーが居なかったと言うことだろう。身体能力の差は簡単には埋められず、戦術の可否をあげつらう気にはなれない。
あまり注目されていないようだが、過去のV杯出場のチームにはラモスの昔から外国生まれの選手が必ずのようにおり、私も彼らの活躍を期待した覚えがあるが、今回は一人も( ? )いないようだ。その意味で日本人選手の実力向上は確かであろう。四年後でなくとも二年後の五輪もあるはず。長友の涙が嬉し涙に変わる日を信じたい。その時には宮間・沢の胸のすくコンビの活躍も見られるだろう。

P.S. 前々回、「トヨタ殺人自動車工場」と書いたが、正しくは「自動車絶望工場」だった。四十年前の記憶を確認したかったのだが、「さとし」という名前の漢字の読みが分からず、確認の仕様がなかった。読める人はそう居ないと思うが!
今回の題名は昭和14年の歌謡曲( タンゴ )からのコピペである。誰の曲??

2014年6月18日水曜日

後悔先に立たず

先日、ノルマンディー上陸作戦の七十周年に際して現地に旧連合国のVIPたちが集まった。プーチンとオバマ両大統領の本格的話し合いは無かったが、顔合わせしただけでも良かった。お互いの間の疑心暗鬼を防ぐためにはともかく会うことが大事である。
1967年春に私が現地を訪れた際には数人のアメリカ人家族らしい訪問者がいただけで、真っ白な十字架の列ばかりが目立った。米軍戦死者の広大な墓地はフランスから土地を寄進されつくられた。日ごろアメリカニズムにたてつくフランス人も当時はそうでもなかったようだ。

上陸作戦に参加した米英加ら連合国にとっては誇らしいイベントだったが、新聞によればその後八週間のドイツ軍との戦闘で米軍(連合軍?)の死者が二万数千人、さらに連合軍の砲爆撃の巻き添えで死んだフランス人住民の死者が二万人だった。
また、ドイツ空軍の有名なロンドン空襲(バーミンガムなども)による死者よりも、フランス解放戦中の巻き添えによる住民の死者の数が多かった(A.Marwick,War and social change in the twentieth century)。ひとたび外国軍の占領を受けたとき、民間人の被害(それも友軍による)だけでも並々でないことは忘れてはならない。後悔先に立たずは千年の真理である。

マーウィックの同書によれば、シャンゼリゼでの戦勝パレード中のドゴール将軍を狙った敗残の狙撃者たちの一人は日本人だった。ドゴールがこの時死んでいたら日本はフランスの歴史教科書で不名誉な記述をされていたかも。それより何よりこの日本人を無謀極まる企てに参加させた心の闇はどう理解したら良いのだろうか。

2014年6月16日月曜日

日本的経営の勝利?

先日のテレビ東京の「カンブリア宮殿」に豊田章男トヨタ自動車社長が登場した。作家村上龍が中心のこの番組を私はほとんど見ていないが、今回は大好きな自動車を作る会社、それもトヨタ社長というので二時間近くを割いた。世界販売台数が一千万台を越え、今期25兆円を売り上げた日本最大の企業、33万人の従業員を率いる社長のプライベートな車はトヨタ車で下から二番目の小型車ヴィッツであり、彼は楽しそうに運転していた。

しかし、彼が社長に就任した2009年は、前年のリーマンショックの影響で決算は4000億円の赤字、それ以上に7900万台のリコールを迫られ、米国の公聴会で悪意からともとれるつるし上げに会った。渡米時には社長辞任もありうるとまで考えていたが、「私の作る車はすべて私の名前を冠している my name is on every car。責任回避のつもりはない」と反論した。その後のトヨタ系販売店や工場従業員との会合では彼らの温かい激励を受けた。ある従業員らしい男はトヨタのために「何か私に出来ることはあるか」と問い、トヨタ社長の感涙をさそった。彼らがトヨタ社を信じ、その関係者であることを誇りにしている様子は見てとれた。

かなり前、当時の奥田トヨタ会長の年棒が約6000万円だった(ソニーの出井会長のそれは一億数千万円のとき)が、アメリカの巨大会社のCEOはその十倍ないし数十倍だったろう。章男社長の座右の銘は「もっといい車を作ろう」で、自らサーキットで時速200キロで試運転している。震災後は東北を愛知、北九州に次ぐ第三の製造拠点と決めた。(計画はそれ以前からあったようだが)  たとえ国際競争上不利でも国内で年産300万台を減らす気はないと言う。

四十年ぐらい前、自らの期間工の経験を「トヨタ殺人自動車工場」というルポルタージュにして評論家の仲間入りをした人がいた。たかが数ヶ月、ルポ目的で働いた人間に何ほどのことがわかるだろうか。テレビ東京が経済界よりの傾向があることは無論承知しているが、私は某評論家よりも村上龍を信用している。

2014年6月13日金曜日

W杯とブラジル

今朝の民放テレビはテレビ東京以外は全てサッカーのW杯のニュースだった。まだ日本チームは試合をしていないのに! メディアによれば現地で日本出場のゲームが一回見られるツアーの代金が70万円台。三回見られるツアー代金が170万円台だとか。自分の金を何に使うかは個人の自由で、他人があれこれ言うことではないが、日本も豊かになったというべきか?

プロ野球ファンの私がサッカーに冷淡なのも個人の好みで仕方がないが、その理由の一つは日本サッカー協会(それともJOC?)がロンドンオリンピックへのサッカー選手派遣にあたり、女子チームより男子チームの機内の座席のクラスを上にしたことである。男女平等に反するのは言うまでも無いが、女子は優勝を狙うチーム、男子は上位入賞さえ危ういチーム。さすがに帰国便では男女同じクラスとなったらしいが、何を基準にすれば男子優先となるのか。関係者の意識の低さは情けないの一語につきる。

ところでブラジルでは施設の整備の遅れの上にスト、デモ、さらには警官のストを好機とする商店の略奪と何でもありの情況となっている。日本チームの第一試合の会場のレシフェ市では死者三十名の騒ぎとか。サッカー王国だけにブラジルチームが勝ち進めば情況一変となる可能性も否定できないが。
今話題の虎ノ門ヒルズは一日の遅れもなく完成したという。ブラジルとの違いは明らかである。関係者の努力には頭が下がる。ただ私はそのための関係者の緊張が如何許りだったか、想像すると心が痛む。ブラジルの開催準備の遅れもW杯開催を人質にしたデモスト騒ぎも(略奪や殺人は無論)ほめられることではないが、デモもストも許されない某国の人たちと比較して、私はブラジル人が不幸だとは思わない。
それだけではない。他国のサッカーチームが練習を非公開にしているのに対し、ブラジルチームは始めから終わりまで公開だったという。自信のなせるわざではあろうが、強豪チームは数多く、優勝は確実でも何でもない。やはり、こせこせしない大らかな国民性と無関係ではあるまい。そうした点は日本も見習ってもよいのではなかろうか。

2014年6月8日日曜日

「高血圧論争」と安全

日本人間ドック協会が発表した高血圧の要注意値147以上が、これまでの日本高血圧学会のガイドライン140以上と違うということで、「今、医療現場では高血圧の数値をめぐって大きな混乱が起きている」(週刊朝日 6月13日号)ようだ。個人的にも戸惑われている方は多いだろう。

私自身は低血圧人間なので数値の心配をしたことが無く、降圧薬を服用したこともない。しかし、我が国の社会保険費の中で医療費が突出しており、その相当部分を降圧薬が占めているならば無関心ではいられない。まして、ノバルティス社と学界ないしその会員との癒着が報道される状況であれば。

高血圧学会や内科医たちが147という数値に反論するのを既得利益の擁護のためとまでは言いたくない。患者の健康を守るためと信じたい。しかし、「安全、美観、費用」で述べたように、安全や健康がどれほど大切でも、費用がどれほどかかってもとまでは言いたくない。例えば暴飲暴食を改めようとしない人の健康費用を惜しんでも間違いとはいえまい。

個人の生命、安全、健康が重視されるべきは当然だが、現在の日本ではそれらが絶対の善とされ、それらを軽視することは許されないといった雰囲気がある。しかし、国家予算に限りがある以上、各部門に軽重があるのは止むを得ない。一方に身障児を抱え、将来を考えると死ぬに死ねない親がいるのに、「広く薄く」が正しいとは言えない。

追伸  昨日の「日経」によれば、先日このブログで取りあげた中国の戦闘機の異常接近も、自衛艦への中国艦のレーダーの照準合せも、現場の暴走の可能性が高いという。後者については当時私は「声」欄に投稿し、上部の判断の可能性は低いと指摘したが、没となった。新聞はその程度の慎重さも無いのか。それとも国民の過剰な安全観に異を唱えたくなかったのか。続報を忘れない「日経」には敬意を表したい。

2014年6月6日金曜日

新車販売実績の有為転変?

五月の新車販売実績が発表され、上位十車種のうち軽自動車が六車種を占めた(四月は確か七車種)。それも驚きだが、さらに一、二位とも軽自動車で、普通乗用車は三位にフィット(ホンダ)、五位にアクア(トヨタ)、かつて一位を長く保ち私も所有したプリウス(トヨタ)は七位。世の中変われば変わるものである。
この軽自動車優位の傾向は最近一貫しており、米国の自動車メーカーが軽優位の税制を強く批判していた(軽自動車と普通車のうち最も税金の少ない1000c.c.エンジン車で四倍弱の差があった)。その結果日本政府はようやく軽の税額を1.5倍にしたが、今回の発表を見る限り、この程度の引き上げは大勢を動かすほどではなかったことが示された。米国側の不満は一時的に鎮静化しているようだが、解消はされないだろう。

私は日米の道路幅の差や駐車スペースの差、ガソリン価格の差を無視する米国業界の一方的な要求に好感は持てなかったが、我が国の軽自動車の優遇も度を越しており、異常とも言える実状を改めるには税額を二倍程度引き上げても止むを得ないと考えていた。

私とても地方在住者とくに農家など第一次産業従事者に軽自動車がどれほど生活の助けになっているか、地方に出るたびに目にしている。ただ、ガソリン消費は軽と小型車の差はあまり無い。省資源の度合いでは軽自動車はハイブリッド小型車に及ばないし、最近の非ハイブリッド小型車のエンジンの改良は国の内外でも目覚ましいものがあり、ハイブリッド車に急速に近づいている。軽自動車と普通車の税金や保険料の余りの差は、我が国の自動車産業の正常な発展に寄与するとも言い切れず、国際競争力にマイナスとなり兼ねない。何よりも1.5倍という数字さえ米国の圧力なしにはあり得なかった現実が淋しい。

追伸。最近二度ほどタイトルに間違いがあったのは、iPADでは題名が書き始めしか表示されず、間違いに気付かないためです!!

2014年6月3日火曜日

紙資源の浪費む

海外ツアーに参加した経験のある人なら誰でも知っていることだが、旅行会社からの宣伝冊子の多彩さ( ? )は年々ひどくなり、総重量が1kgを超えたかと思ったら、今日配達されたものは1.5kg弱あった。それが年数回(毎月?)届くのだから、無料で頂く身としては恩知らずながら正気の沙汰とも思えない!この一年あまり体調もあり海外旅行は慎んでいるのだが、先の可能性も考えると配布を断りかねている。

旅行会社だけではない。新聞の全ページの半数は広告ページになってきた。今朝の某紙の全面ページ広告は40ページ中14ページだが、下欄の広告スペースを合わせれば優に全ページの半分は広告欄となる。だから購読料が抑えられていると反論するだろうが、新聞社は社員の高給を維持するためではないと胸を張って言えるだろうか?

新聞本体だけではない。折り込み広告を合わせると正気の沙汰ではなくなってきた。我が家のメールボックスはけっして小さくないと思うのだが、二泊三日以上の旅行には新聞配達の一時差し止めが必須となってきて面倒この上ない。配達員の人手の必要も半端でないはずだが、何より、地球環境の保全の大切さを日頃口にする新聞がこれほどの浪費をして平然としていられるとは驚く他ない。新聞の古紙再生率は上昇し七割ぐらいになっていると思うが、地球の生む木材は住宅などもっと他の用途に向けるべきである。先進国の資源浪費の一例、それも小さくない一例ではなかろうか。