現代はテレビで現地の状況にある程度接することができる。疑問だったのは、イスラエル軍による爆撃の激しさ、恐ろしさは十分感得できたが、その割りに犠牲者数は多くないことである。イスラエル建国以前の両大戦間のパレスチナでは、委任統治国の英国の施設へのユダヤ人過激派の時限爆弾攻撃がなされたが、原則としては直前の予告があった。今回もやはり爆撃前の予告があり、あれほどの激しい爆撃にしては死者数が抑えられているようだ ( 宣伝戦でも有利 )。
今朝の『毎日』のコラム『火説』に元エルサレム特派員の大冶朋子氏が書いている。「当時ガザで取材していた私 ( が見たの )は、ハマスが病院や住宅街の下にトンネルを築いて身を隠し」、「爆弾を学校に、軍事拠点を海外メディアの居るビルに隠す.....『人間の盾』戦術だった」という。私も今回投石するアラブ人が少年ないしそれ以下の子供たちだったことを知っている。ある意図を感じざるを得ない。ヨルダン川西岸のPLOが動かないのもハマスの本質を熟知するからではないか。
大冶氏は「『外野』の過激な言論を含め暴力は大抵『正義』の顔をしている。......市民の犠牲をいとわぬ者に正義が宿るはずもない」と、二つの正義の間で苦しむのは民衆であると結んでいる。
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