2020年8月28日金曜日

民主主義の枠

米国の民主共和両党の大統領選の候補者も決定し、舌戦の激しさはいちだんと高まった。わが国でも7年8か月続いた第二次安倍内閣は首相の病気再発で終わりを告げた。これからの両国の政治の季節は荒天に向かうのだろうか。

米国の大統領選の道義的水準がこれまでどうだったかは詳しくは知らないが、すでに大統領選は序盤で激しい攻撃の応酬と成っており、とりわけトランプ大統領のバイデン候補への攻撃は礼節を全く欠くばかりか、ファクト無視の低水準のものとなっている。それに対し、安倍首相の辞職は病気によるためもあり、野党も礼節を欠く言動は慎むだろう。

このように日米の政局は今後大きな変化を予想させるが、米国でトランプ氏が敗北しても政治裁判にかけられるとは思えないし、無論わが国でも考えられない。当たり前のようだが、世界ではベラ・ロシアはもちろんロシアでも政権交代が平和的になされるか大いに疑わしいし、中国に至っては平和的な指導者交代は夢のまた夢である。

ヨーロッパでは君主無答責の原則 ( 君主は政治的責任を追及されない ) が少なくとも立憲君主国では慣例となり、その伝統からか、君主ならぬ大統領も将来の身の安全を心配することは通例考えられない。いかに米国の政情が今後悪化しようとも基本的には一定の枠内にとどまるのではないか。あまりに表面だけを追うと判断を誤ると私は思う。

2020年8月23日日曜日

大学講堂の思い出

今朝の毎日新聞の『日曜くらぶ』というページは「レトロの美」と題して東京女子大の礼拝堂がカラー写真入りで紹介されている。私も三十余年の在職中、式典のたびに出席したので懐かしく読んだ。アントニン・レーモンドの1938年設計の礼拝堂 ( 兼講堂 ) の外観の美しさと内部のステンドグラスから降り注ぐ光の美しさがそこに紹介されていた。確かに美しいが、ヨーロッパの礼拝堂のように聖書の物語などの絵入りのステンドグラスを見慣れた目にはシンプルでそれほどの感激はない。

式典では一般教員の席は学生と同じ高さだったが、無宗教の学校で学んだ私には賛美歌と祈り入りの式典は珍しかった。校歌は男性にはとても歌えない高音入りだった!

それでも私は二度壇上で話したことがある。一度目は就職翌年の大学紛争時で、教員は壇上に上げられて団交という名の吊るし上げの対象になった。私が話したのは確か、貴女たちの行動はマルクス主義に反するといった内容で思い出すだけで赤面ものだが、なんとか闘争学生たちを改心させたいとの一念だったと理解してほしい。

二度目は宗教部主催の集会で、専門に関連する話を求められた。丁度その頃読んで感銘を受けたクレンチン・ベレズホフの『私はスターリンの通訳だった』( 同朋舎出版、1995年 ) について話した ( 現在、ウクライナの外交官の必読書と聞く )。スターリンに気に入られヤルタやポツダムの首脳会談でソ連側の通訳を務めた数奇な生涯のウクライナ人の回顧録で、私には全編、面白さ抜群だった。なかでも、大戦後米国に亡命し亡くなった両親の墓に、ソ連崩壊後初めて訪れたら新しい花が供えられており、妹が生きていることを知り再会を果たしたとの最後のエピソードには涙が溢れて止まらなかった。講堂では再び泣くかもしれないと予告して話したが、見苦しいことにならなくて良かった!

2020年8月20日木曜日

コロナ禍が社会を変容させる?

このところ何十日か、朝刊を開くとまず全国のコロナ感染者数を確認してしまう。現在はコロナウィルスとの戦いのまだ序の口なのか、もう中盤なのか。誰にも分からないようだ。

一説ではコロナ禍でテレワークが促進されて大都会の中心 ( 東京なら23区 ) の人口が郊外や地方に分散するという。郊外の住民としては歓迎だが、本当にそうなるのか。地方の過疎化は深刻なようだし、メディアのお先走りではないのか。

それでも大都市近郊に関しては中心の拡大の余波で人口は増加するかもしれない。私の住む多摩市では駅と多摩川との間に33階520戸のタワーマンションの工事が始まっている。そこは昨年多摩川の増水の恐れで避難勧告が出た一帯なのだが、それでも駅まで5分という便利さの魅力には逆らえないようだ。

半世紀前、私が市民 ( 当時は町民 ) の一員となった頃、多摩川の水位が2回ほど上昇した。見物に行ったら二段式の護岸の境目あたりを川波が洗っており、大波が来るたびドジョウが何匹も打ち上げられた。平常時は水量は少ないのに魚はいるものだと感心し、自宅にとって返し昆虫採集用の網で数匹を捕らえ、食した。そのあたりに今やタワーマンションが建つとは...........。コロナウィルス程度で趨勢は変わらないようだ。

2020年8月17日月曜日

腰痛クリニック再訪

一年以上?前に初めて経験した腰痛が再発した。今後は余生をこれと共生することになるかと思うと憂鬱だが、薬で痛みが軽減するだけでもありがたいと思わなければ.........。

前回と同じ駅前のクリニックで受診する際、原因らしいものを記入する欄があった。他に思い当たることもないので時期が一致する高速道路での事故渋滞に起因する長時間運転を挙げた ( と言っても4時間程度だが )。60歳台~70歳台と思われる医師は前回は無愛想な人と感じたが、車の運転が好きらしく、今回の運転の行先や理由まで聞かれ、前回よりは打ち解けた態度だった。趣味の偶然の一致でもそれで今後の対応が良くなるなら迎合もやむを得ない!(本当に迎合だけ?)。

コロナ禍以前は多くの患者で混んでいた院内は、休業明け2日目だったが一つ置きになった座席が一杯になるくらいで、思ったより来院者は少なかった。やはりコロナ感染者になりたくないためだろう。気持ちは分かるが以前の混雑は本当に切実な患者だけだったのか? それにしても必ず勤務しなければならない医療従事者には感謝するしかない。どの職業であれ、労働は尊い。

追記  何故か、ブログ発信の煩雑化が収まり旧に復した。原因は私のiPadではなかったようだ。老人には戸惑うことが多くなった!

2020年8月10日月曜日

楊逸氏の近著を読んで

2008年に『時が滲む朝』で外国人 ( 中国人 ) として初めて芥川賞作家となった楊逸氏の近著『我が敵「習近平」』( 飛鳥新社 )を読んだ。純文学作家である彼女にしては激しすぎるタイトルだと思ったが........。

共産主義ソ連は鎌と槌を国旗に取り入れたように労働者と農民の国と自らを規定した。その結果、知識人などそれ以外のカテゴリーの人間は軽視されたばかりか、むしろ疑惑の目を向けられた。その頂点がソ連の後を追った中国の下放運動だった。楊氏の父は教員だったため一家は辺地に送られ地獄のような苦しみを味わった。激しいタイトルは共産党政権への絶望から生まれた。

私は習近平が中国の指導者に選ばれたのち出来るだけ好意的に見守ろうと心がけた。文革で彼の父も一時失脚し、彼自身も辺地に下放させられた前歴があるからである。彼の汚職撲滅運動も他派閥排除の側面を持つと感じながらも中国にとって何よりも必要と考えたからである。私が本書を購入したのは少しでも売れ行きに貢献したかったこともあるが、楊氏が私と同じ期待を抱いたがその期待を裏切られたため激しいタイトルとなったのではと想像したからである。しかし、理不尽極まる下放を経験した氏には習近平への期待など最初から持ち得なかったようだ。

本書のもう一つの主張はコロナウィルスが武漢の研究所から流失したものであり、米国弱体化の作戦の一部だというもの。私には判断できないし、本書も決定的証拠を示してはいないが、一般論として現在の中国が目的のためには手段を選ばない国家体制であることは同意したい。本書は何よりも日本人への警告の書なのである。

2020年8月9日日曜日

自然との共存?

昨日、西側の隣家との幅1メートル程度の空き地を歩いたら何かがサンダル履きの素足に触れた。何かと見たら体長数十センチの山かがしだった。マムシと違い毒性はずっと弱いと聞くが、それでも危ういところだった。

我が家の敷地内で蛇に会うのは半世紀前に一度あるだけ。今朝、現場には蛇の影はなかったが、庭に移動した可能性もあり、気持ちの良いものではない。東と西の隣家とはそれぞれ一メートル弱の標高差?があるのでそれを超えて来たとは思えない。北面の土手とも数十センチのブロックの基礎があり、南面は道路である。不思議に思ったが、よく調べると隣家との間に数センチの隙間があり多分そこから侵入したのだろう。その先の土手は夏草に覆われているが、いろは坂と呼ばれるバス道路に囲まれ、ベビといえども簡単には超えられないと思っていたが.........。、、


以前にアライグマとの共存を強いられていると書いたが、蛇との共生存
は有難くない。しかし、タワーマンションに住むほどリッチでない身としては自然との共存をするしかない。誰だ、自然との共存を賛美する奴は!

2020年8月6日木曜日

言い忘れ

小旅行後、故障でブログが打てなくなった。家人の助けで修理してもらったが、作成前の準備が倍加した!  今後も続けるつもりだが、回数が減るかもしれない。悪しからず。

球磨川水害におもう

熊本県の水害被害からの復旧作業が遅れていると報じられている。皮肉なことにコロナ禍の流入を警戒してボランティアを熊本県人に限ったことが復旧の遅れを生んでいるという。県の判断を誤りだとは誰も言えないが、被害者の皆さんの困難はそれにより一層深刻になっているようだ。

ボランティアにせよ自衛隊員にせよ、梅雨明けのこの猛暑の中での作業に本当に頭が下がる。ボランティアに金銭的に報いるというのには矛盾があるが、せめて栄誉の面で報いる道はあるのではないか。

被害画面を見ていると人吉盆地からすぐの下流の渓谷の狭さが印象的である。球磨川の最大の支流の川辺川のダム計画は住民の反対で2009年?に中止となった。それが今度の水害の原因とは言えないとしても被害を大きくしたことは否定できないのではないか。被害とダムとの関連については『読売』がその可能性に触れていたが、昨日の『毎日』はほぼ1ページを費やして被害拡大論と反対論の学者の対立する主張を紹介している ( 後者は反対運動の支持者だったようだ ) 。

素人の私に軍配を上げることは困難だが、中止に代わる代替案として10通りの治水案が示されたのに、そのそれぞれに疑問や反対論が出て、結局どれも実現できずにきた結果が今度の水害を生んだと言っても過言ではないのでは。中止を決めた蒲島熊本県知事はその特異な経歴から私も敬意を抱いてきたが、今度の水害の責任が皆無とは私には思えない。とまれ、知事はそうした疑問に答えるべきだし、被害の報道ばかりでその原因を全くネグレクトする他紙は怠慢至極と思う。
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