2019年2月16日土曜日

名門浪商の名選手たち

夕刊に元浪華商高野球部監督の広瀬吉治氏の逝去が報じられている。最近こそ大体大浪商高は高校球界の強豪校ではなくなっていたが、戦後復活した1946年の中等野球大会で優勝して以来、四半世紀以上も甲子園の強豪校であり続けた。

名前も知らなかった広瀬氏の訃報に驚いたのは、氏が戦後第一回の中等野球大会の優勝時の捕手だったとあったから。当時は日本中が食糧難に苦しんでいた時期だったが、京都2中との決勝戦で相手打者をバッタバッタと三振に討ちとる平古場投手の活躍は素晴らしく、中学1年の私はラジオ放送に聞き入ったものだった。その時の浪商の捕手が広瀬氏とは知らなかった ( 平古場は後に慶大で活躍。プロには進まず ) 。

再び夏の甲子園で浪商が優勝した時は怪童と呼ばれた高2の尾崎行雄投手が大活躍。彼はその後高3に進まないまま東映フライヤーズに入団し、1年めの1962年、20勝9敗で新人王になった。チームメイトだった元巨人の高田外野手は尾崎の球速は最高だと評価している。

三度目の甲子園になる春のセンバツ大会では広瀬氏が監督で、牛島和彦投手と香川伸行捕手のバッテリーで勝ち上がったが、決勝戦で敗れた。牛島と香川はそれぞれ中日ドラゴンズと南海ホークスで活躍し、香川は野球マンガの主人公の「ドカベン」の愛称でファンに愛された。

平古場も尾崎も香川も鬼籍に入り、その活躍を知る人は少なくなった。そうでなくとも引退後のプロ野球選手の後半生は一部を除き話題に上らないのは寂しい限り。私は決して忘れない。


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