戦前のわが国ではハルビンではなくハルピンと発音した。同じ旧満洲でもほとんど最北の都市のハルピンは、ロシア支配時代の街並みや松花江 ( スンガリー ) の故に、南の大連 ( 清岡卓行の『アカシアの大連 』) と並んで日本人にあこがれのようなものを感じさせた。大連はともかく、今でもハルビンのロシア建築の街並みは同市観光の目玉と言ってよい。
満州族の故地である東北中国でも少なくとも十余年前まではハルビンは、人口では負ける瀋陽や長春に負けない人気の観光地だった。端的に言うならロシア帝国の植民地だったが、それがある種の文明の伝播であったことも事実だろう。
以前にも本ブログで紹介したかもしれないが、英国人の女性旅行家イザベラ・バードは李氏朝鮮の都市の不潔さに辟易した。しかし、ロシア支配下の旧満洲の朝鮮人の生活は不潔ではなく、彼らの民族性の故ではないと知った。李朝の支配階級の両班が民生に無関心だったのだろう。
西欧諸国から見れば帝政ロシアは遅れた専制国家として厳しい批判の対象だった。しかし、そうした西欧的視点をそのままアジアでのロシア支配に適用することに問題はないだろうか。