2018年8月27日月曜日

ロシア帝国の遺産

昨日の新聞各紙に中国黒竜江省のハルビンでホテル火災があり、19人が死亡とあった。私たち夫婦も十余年前に旧満洲ツアーに参加して同市のホテルに一泊しているが、火災を起こしたホテルは2016年開業とあるので、同じホテル ( 名前も忘れた )ではない。

戦前のわが国ではハルビンではなくハルピンと発音した。同じ旧満洲でもほとんど最北の都市のハルピンは、ロシア支配時代の街並みや松花江 ( スンガリー ) の故に、南の大連 ( 清岡卓行の『アカシアの大連 』) と並んで日本人にあこがれのようなものを感じさせた。大連はともかく、今でもハルビンのロシア建築の街並みは同市観光の目玉と言ってよい。

満州族の故地である東北中国でも少なくとも十余年前まではハルビンは、人口では負ける瀋陽や長春に負けない人気の観光地だった。端的に言うならロシア帝国の植民地だったが、それがある種の文明の伝播であったことも事実だろう。

以前にも本ブログで紹介したかもしれないが、英国人の女性旅行家イザベラ・バードは李氏朝鮮の都市の不潔さに辟易した。しかし、ロシア支配下の旧満洲の朝鮮人の生活は不潔ではなく、彼らの民族性の故ではないと知った。李朝の支配階級の両班が民生に無関心だったのだろう。

西欧諸国から見れば帝政ロシアは遅れた専制国家として厳しい批判の対象だった。しかし、そうした西欧的視点をそのままアジアでのロシア支配に適用することに問題はないだろうか。


2018年8月26日日曜日

「行ってみたい時代」は?

昨日の朝日新聞の土曜版beの讀者アンケートのテーマは「行ってみたい時代」だった。何しろ旧石器時代19位や縄文時代15位から「バブル期」までの20の時代からの選択なので私に予想は困難だった。

1位と2位が「高度経済成長期」と「バブル期」だったのは意外のような当然のような。前者が男性、後者が女性の支持者が多いとか。日本人が初めて豊かさを手にし始めた時代とあれば当然なのか。教員の我が家でもその例外ではなかった。

3位から5位は「平安時代」「幕末」「江戸後期」である。実際にそこで生活するのは現代人には容易ではなかろうが、なるほどテーマは「行ってみたい時代」であって「住みたい時代」ではなかった。6位の「安定成長期」( 1974年~80年代半ば ) を除けばすべてマイカーもエアコンもない時代だった。さすがに戦中戦後の窮乏時代は「行ってみたい時代」20に入らなかった。

以前に紹介したことがあるかと思うが、福沢諭吉が自分は「1代で二世を経験した」 ( 大意 ) と書いている。封建の世と文明開化の世を経験した福沢ほどではないが、私の世代は窮乏時代と物資が溢れる時代の双方を経験した。望んでも毎日は米飯は食べられなかった時代が「行ってみたい時代」に入る筈もない。

それでも同世代の友人の集まりで、「我々も1代で二世を経験したが、それはそれで悪いばかりではなかった」と発言したら反論はなかった。懐旧の情のなせるわざなのだろうか。

2018年8月20日月曜日

がんばれ金足農! がんばれ東北勢!

甲子園の全国高校野球選手権大会で秋田代表の金足農が決勝戦進出を果たした。秋田勢の決勝戦進出は103年前の秋田中以来だとか。

100回に及ぶ夏の甲子園大会で東北勢は一度も優勝したことがない。優勝できない内に北海道の駒大苫小牧が先に優勝旗の白河の関越えを実現してしまった。太田幸司投手を擁した三沢高と田村隆寿投手を擁した磐城高が準優勝したことはあり、とくに三沢高は優勝旗に手が届きかけたが、松山商との大接戦の末敗れた。その後も東北高や仙台育英高が確か決勝戦進出を果たしたが、その頃には東北勢とは言っても選手は他地方出身者が多くなり、私の関心も薄れた。

今回の金足農は出場したナイン全員が地元出身と聞き、久しぶりに高校野球中継を見た。凄さはないが良く鍛えられたチームという印象である。決勝戦の相手と決まった大阪桐蔭は春夏連覇を狙う強豪校であり、前途は楽観できそうもない。それでも私は、準優勝に終わったとしても地元出身者だけで闘う金足農を全力で応援したい。

金足農のユニフォームの胸の文字KANANOは私に戦前に準優勝した台湾の嘉義農林のKANOの文字を思い出させた。双方とも農業校なのは偶然なのだが、不思議な縁を私に感じさせる。三沢高や磐城高だけでなく嘉義農林の無念も晴らしてもらいたい!

ちなみに、今日、金足農に敗れた日大三高は西東京代表であり、今年の私の年賀状の写真「  朝日に匂ふ」は同校から1キロもない町田市図師町結道の谷戸の一本桜である。

2018年8月18日土曜日

長すぎるスピーチ?

今日の東京新聞に「スピーチ  なぜ長い」との見出しの記事が載っている。『スポーツ報知』(16日)が甲子園球場での開会式のスピーチが長すぎたと報道したことの後追いの記事である。それによれば5分20秒の朝日新聞社長のスピーチに続く林芳正文科相と八田英二高野連会長のスピーチで合計20分だった。100周年記念大会という事で文科相の挨拶まで加わったためもあろうが、例年にない暑さの中で立って聞く選手たちには長すぎた。

記事によれば教員と政治家に長話が多いという。スピーチ慣れしているからもあろう。歴代首相の衆院での施政方針演説では1位も2位も鳩山由紀夫氏の52分(2009年)と51分(2010年)、3位が安倍氏の48分(16年)とのこと。それに対し吉田茂氏と岸信介氏の3分が最短だった。年々形式的になってきたとすれば問題だろう。

もっとも、習近平主席の中国共産党大会 ( 17年 )での3時間半の演説、キューバのフィデル・カストロ首相の国連総会での4時間29分の演説、同氏の国内での7時間15分の演説 ( 98年)と比べれば短いと言える。旧ソ連時代から各国の共産党指導者の大会演説は長かった。いかに独善的になっていたかが演説の長さに現れていた。

「人民の人民による人民のための政治」で知られるリンカーンのゲティズバーグ演説は同地の戦闘で倒れた死者たちを弔う式典での演説であり、英語での最も有名な演説だが、3分間で終わり、写真師は演説中の大統領の写真を撮る暇も無かった ( 当時の写真術は簡単では無かったが ) 。スピーチは長いほど内容が空疎になりがちになるのだろう。

P.S.   前回のブログで駅ピアノのプラハ篇が同市の美しさを演奏者たちが讃えていたと書いたが、同市の回は2篇あり、一昨日見た第1篇にはそうした言及はなかった。私自身耄碌したかと肝を冷やしたが、前篇が有ったとは知らなかった。誤解をされないため!

2018年8月13日月曜日

プラハとワルシャワ

るNHKの短編番組に『駅ピアノ』というのがある。私はこれまで3篇しか見ていない。最初の回がどこの国の駅だったか忘れたが ( 情けない!)、2回目はチェコのプラハ ( マサリーク駅。チェコの独立運動の指導者で初代大統領 の名にちなむ ) 、3回目は南伊シチリア島のパレルモ国際空港だった。

大勢の人の行き交う駅や空港の構内にぽつんと置かれたピアノに旅行者が立ち寄り、いっときピアノ演奏をするという番組で、曲目はクラシックからポピュラーまで演奏者によりさまざまである。我が国にも例が無いわけでは無いと聞くが、私は出会ったことは無い。恥ずかしがり屋の多い日本人と違いヨーロッパでは文字どうり老幼男女が気楽に弾いて行くという印象だった。

ピアノ演奏自体や内外の多様な素人演奏者たちへの興味もさることながら、挿入される都市の風景が珍しかったり逆に懐かしかったりしながら見ている。後者ではプラハの町の魅力を口にする奏者が多かった。私たち夫婦がツアー参加者として共産圏時代のプラハを見物したとき、現地ガイドが映画『アマデウス』は当地でロケが為されたと自慢したが、確かにそれが納得できる美しい街だった。

古い街並みが残っているということは、ナチスドイツの侵略や「プラハの春」へのソ連軍の介入にチェコ人は徹底して抵抗しなかったことを示す。他方、ポーランド人はドイツ占領軍にたいし武装蜂起して敗れ、美しい旧市街を徹底的に破壊された ( 戦後、破壊された建物の断片を集めて見事に再現したが ) 。

世界遺産のとびきり美しい街を後世に残したチェコ人と、ナチスドイツに果敢に抵抗したポーランド人。より賢いのはチェコ人に違いないが、ワレサの指導下の労組「連帯」の執拗な抵抗が東欧自由化に多大な貢献をしたポーランド人は真に感謝に値する( その後の政治が順調とはいかないのもポーランド人らしい!)。

私はチェコ人とポーランド人の選んだ道のどちらが正しかったか判断できないし、したくもない。ただ、そうした困難な選択に国民を追い込む政治はあってはならないとは思う。

P.S.    前回の西川史子氏の出演した番組は、関口宏が司会する「サンデーモーニング」ではなく、爆笑問題の司会する「サンデー・ジャポン」でした。悪しからず。



2018年8月9日木曜日

訂正

前回のアンケートの「理解できる」の8.4%は18.4%の誤りです。スミマセン

医学系大学の合格基準

東京医科大学が男性と女性の受験者に別の合格基準を設け、男性受験者に有利になるよう男女比を設定していたとの報道がなされて一週間になる。その間、同大学の措置が男女差別だとの批判がメディアにあふれた。

今朝の新聞 ( 『朝日』と『産経』)に医師の紹介会社「エムステージ」が男女の医師にアンケート調査をした記事が載っており、回答者103人の結果は、男性受験者への優遇が「理解できる」が8.4%、「ある程度理解できる」46.6%、計65%だった ( 数字は『産経』による )。

じつは個人の発言としては、5日のTBSの『サンデージャポン』に出演した医師兼タレントの西川史子氏が、「当たり前です、これは。( 東京医大に ) 限らないです。全部がそうです」と断言していた ( インターネット『スポニチ アネックス』で私は偶然知った ) 。

氏によれば、「 ( 成績の ) 上から取っていったら、女性ばかりになっちゃうんです。女子の方が優秀なんで」とのこと。 「さらに女性医師の割合が増えたら『世の中、眼科医と皮膚科医だらけになっちゃう.........。( 女性は ) 外科医は少ないです」「だからやっぱり女性と男性の比率はちゃんと考えなければいけないんです」「男性ができることと女性ができることって違う」( 司会の関口宏の困惑ぶりが目に浮かぶ 。ここまで明言されるとは思っていなかったのでは?)。

西川発言に誇張はあろうが、とりわけ外科医など男女の体力差から女性医は少なくなりそうだ。受験生の知らない内部調整は許されることではないが、実情に詳しくない外部の批判が正しいとも言い切れない。男性が入学できない女子医大の存在が男性差別でないとすれば、共学校が男女の合格比率をあらかじめ公表すれば女性差別とも言えない。ことは医学系大学に限られない。

ともあれ、西川発言が他のメディアに完全に無視されてきたことは健全とはいえない。

2018年8月7日火曜日

動物としての人間

早朝の始発駅発の電車には自分以外はほとんど乗客はいない。ところが発車間際に駆け込んできた乗客がいきなり私の隣の席に座ったら、私は不安に駆られる。それは人間が他の動物と同様にテリトリー (  占有領域 ) 意識を持つからだとの説をむかし心理学者が書いていた。つまりは人類が地球上に誕生して以来身に付けた本能は一朝一夕には無くならないということだろう。

野生動物の実写番組をテレビでよく見るが、自分の遺伝子を広く残そうとのオスたちの本能には毎度強い印象を受ける。一方メスは自分の卵子のために最も強いオスを選ぼうとする ( どちらかの味方はせず、オスの闘いをジッと待つ!)。

ときに忘れがちになるが、人間も動物の一種である。長い間に利他の心を育てた人間は他の動物との間に差をつけたとはいえ、やはり動物的本能と完全に縁を切った ( 切れた ) わけではあるまい。理想を追い求めることは大切だが、現実を踏まえない理想がときに巨大な悪に至ることはソ連を初めとする共産主義諸国の歴史に明らかではないだろうか。ルソーからマルクスに至る「人間の完成可能性 perfectibility of man 」への信頼のひとつの到達点をそこに見るのは間違いだろうか。悪に対する備えを欠く理想を私はそこに見る。

P.S.  アマチュア主体の日本ボクシング連盟の惨状が明らかになりつつあるが、前々回のファイティング原田が会長を務めたのは日本プロボクシング協会です。念のため!)。

2018年8月3日金曜日

「良いことは実行しよう」に潜む陥穽

初等中等教育に従事する教員たちの負担過重が問題となっている。そのむかし、「教員は夏休みがあっていいね」とイビられた?身としては世の中変われば変わるものだと思う。

その原因のひとつが部活動への奉仕的関与らしいが、無論それだけではあるまい。校門で生徒たちを出迎えるなど私は生徒として一度も経験したことは無かった。同様に、「学級通信」的な刷り物をもらった記憶も一度も無い。どちらも無いよりはあったほうが有益な活動だが、教員として不可欠な行動では無い。

私は教員にとって第一の本務は生徒や学生の心に残る授業をすることだと考える。むろん生活指導も進学指導も本務のうちだが、そこには自ずと軽重の差はあるはず。私には校門での出迎えがどうしても必要とは思えない。それに比べれば学級通信は有意義だが、そのために授業内容の充実が後回しになるなら本末転倒としか私には思えない。私自身、部活動の顧問を務めたことがあるので、教室以外での生徒との交流の価値を十分理解しているし、心温まる思い出になっている。余力のある人が従事するのに何ら反対しない。

「良いことは実行しよう」と言われれば反対しづらい。まして費用対効果の意識の薄い教育の場ではそうである。しかし、むかしは無かった給食の事務から教育実験の報告書作りなどで教員が疲労するとすれば、「良いことは実行」では済まない。

最近、大学の特色ある研究活動への助成 ( 私立大学研究ブランディング事業 ) をめぐって文科省局長の不正関与が問題となっている。限られた予算を有効に活かすため優れた研究活動に資金を集中配分することに原理として反対しない。しかしそのために大学教員が申請や成果報告の書類作りにエネルギーを費やすのはプラスなのか。それが今回のように文部官僚の権力拡大に貢献したとすれば笑うに笑えない。