2023年8月30日水曜日

大谷翔平選手の今後の起用

 好事魔多しという諺どおり、エンゼルスの大谷選手が腕の故障で今季の投手としての役割を終えた。残念至極だが既に10勝を挙げているので、十分にチームに貢献したと言える。今後打者として出場続けることが医学的に問題がないのか気がかりである。しかし本塁打の本数で第二位に10本の差をつけており、欠場して逆転され本塁打王の名誉を失う可能性を考えると、やはり打者として出場し続けて欲しい。

 望まない事だが仮に大谷が今シーズン打者として出場し続けて投手としての生命を短くする可能性があっても、すでにベーブ・ルース後の100年間に誰も成し得なかった投手と打者の二刀流を成し遂げた事実は燦然と輝いている。大リーグのルールを改めさせた(大谷ルール)のも快挙というほかない。

 スポーツ選手は成績が全てとは思うが、大谷選手ほど人柄でも日米の野球ファンの心を奪った(先日は敵地のスタジアムで大谷の敬遠にブーイングが起こった)選手は稀ではないか。私の当面の願いは新聞がその日の邦人選手の打撃成績を四球も含めてもっと詳しく報ずること。盗塁に励む投手など前代未聞では? 私だけの希望ではないと思うが.............。

2023年8月22日火曜日

もっと早く実地体験を!

 私は小中高を通して学力ではさいわい上位グループに入れたが、運動能力はやっと中位程度だった。そのため運動会はあまり楽しくなかった。教室ではぱっとしない級友たちがすばらしい走りを披露するのを眺めるばかりだった。

 今朝の『朝日』の多摩版(ほかの版も?)に、「働く経験 社会と接点、 自信を」との記事が載っている。「不登校などの中高生に NPO、足立で取り組み」との小見出しにあるように、「発達障害や不登校などの中学生に働く経験を積んでもらう試み」が足立区で導入され、「賃金という対価を得て自信を深める」子もいるという。

 かつては小学6年ののち高等科2年で社会に出る生徒が農村などでは普通だった。しかし今では高校は准義務化。短大を含めれば大学進学者は半数に達したと聞く。しかも中高で習う授業内容は高度化している。これでは学力の低い生徒は立つ瀬がない。しかし、社会に出れば手先が器用とか根気があるとか、学力以外の能力の方が役に立つケースは多いだろう。学力の高くない生徒に自分の能力への自信を回復させる足立区の試みは全国に拡大されて良い。

 私が高校生の時、郵便局から学校に宛名書きの大量アルバイトの募集があり、多くの級友と参加した。ところが文字を書くスピードの遅い私への支払いは平均以下だった。支払い係の局員は遅くとも間違いがない方が良いと精一杯慰めてくれた!

2023年8月17日木曜日

天国と地獄

  3日ほど前だったか、北アルプスの「伊藤新道」が40年間も廃道になったあげく今夏、山小屋関係者の努力で復活したとの記事(朝日)を読んだと思ったら、昨日の同紙の朝刊に1ページ分の写真入りの伊藤新道の再建の記事が載っていた(そんなに大きなことなの?)。

 記事には略図が含まれるので一目瞭然だが簡単に言うと、 槍ヶ岳を終始南に見ながら湯俣温泉から三俣蓮華岳と鷲羽岳の鞍部の三俣山荘までの10キロの山道を山荘の主人の伊藤正人さんが1956年に開通させた。しかし、かなりの悪路なので四半世紀で通行不能となった。

 私は開通後の3、4年間に2度下山路に利用したことがある。最初は同じ学科だった登山仲間の山行。2度目は有名進学校の登山部の顧問としてだった。どちらも通常の槍ヶ岳登山ののちそのまま下山では惜しいので三俣山荘からさらに奥の「雲の平」と呼ばれる黒部川の源流に囲まれ池塘に富む美しい台地を訪ねたのである。ところが、初回に雲の平にテントを張ってしたように次回も這松を燃料に飯盒飯を炊いたところ、谷間を隔てる三俣山荘から営林所員が飛んできて頭ごなしに叱り飛ばされた(生徒たちの前で)。たった3、4年ほどの間に山の中も世知辛くなっていたのである(むろん先方が正しいのだが.............)。

2023年8月14日月曜日

革命の陥穽

 見終わってうっかり消去したので日付は不明だが、最近録画したNHKのダーク・ミステリーという番組の『美しき処刑人とフランス革命』を見た。衝撃だった。

 フランス革命がどういう経過を辿って過激化し、最後は自滅してナポレオン帝政に至ったかは高校の世界史の教科書や授業で誰でも知っている。本番組の特異さは王政時代から代々死刑執行人の家柄に生まれたサンソンが革命の深化とともに国王一家、穏健派(ジロンド派)、急進派(ジャコバン派)の人々を新しく考案された能率的な殺人機械のギロチンで次々と処刑するストーリーでありること。革命期の死刑執行人サンソンの名は私も知っていたが、彼がフランス革命の全過程で処刑の詳細な記録(日記?)を残していたとは知らなかった。 

 最初は穏健派が指導した革命が次第に急進化してジャコバン派のロベスピエールの独裁のもと昨日までの仲間さえギロチンのつゆと消えた。その間サンソンは犠牲者たちへの同情にさいなまれながらも忠実に仕事を続けた。

 番組を見終わってフランス革命とロシア革命(とソ連)の経過の著しい類似性にあらためて強く印象付けられた。どちらの場合も高い理想を掲げて出発したもののロベスピエールとスターリンの最悪の独裁に終わった。ストップをかけられなかったのは誰しも自分の身が可愛かったのだろう。無理もないと思うが、言論の自由や三権分立などの必要性はどれほど強調してもしたりない。

訂正  前回、 移民団地の中庭で羊が殺されたと書いたが、林氏の著書では中庭で殺されたのは鶏で、羊は地下室でした。

2023年8月10日木曜日

フランスの人種暴動

  1ヶ月半ほど前にパリでクルマで停止命令を無視したアラブ少年が警官に射殺された事件があり、これに対する抗議の暴動があった。月刊誌『世界』の9月号に山下泰幸氏の「フランスの『郊外暴動』に終わりはあるのか」と題する論稿が載っている。それによると今回5954台のクルマが燃やされ、1092件の建造物破壊(うち108ヶ所の学校、39ヶ所の図書館)、723人の警官が負傷。逮捕者の平均年齢は17歳とのこと。日本では想像もできない激しさである。

 フランスは1950〜60年代の経済成長期にアルジェリアやモロッコなどの植民地から労働者を受け入れた。さらにアルジェリアが武力闘争の末に独立すると、深い考えもなくフランス軍の一部として独立派と戦ったアルジェリア人十数万人は母国では死刑になりかねず、フランス本土に引き取られた(アルキと呼ばれる)。彼らアラブ人はパリなどの大都市の郊外の団地に住んだが、フランス語を理解できない彼らはフランス社会に統合されることはなく、そのため何年かごとに暴動を繰り返してきた。子弟たちはフランス語で教育を受け、フランスは「自由 平等 博愛」の国だと教えられたが、実態との乖離は甚しかった。

 フランス政府が彼らを意図的に差別したわけではなく、社会党のミッテラン政権など融合に努めた。しかし、イスラム教をはじめとする文化的伝統の差に加えて生活習慣の違い(団地の中庭で羊を殺して解体するなど)も大きかった( 林瑞枝『フランスの異邦人 移民・難民・少数者の苦悩』 中公新書 1984年)。こうして移民の団地の治安にはフランス警察も容易に介入できないとなれば、せめて郊外団地外に治安悪化が拡大することは防止するというのが警察の本心なのではないか。そして移民以外のフランス国民の本心でもあろう。

2023年8月7日月曜日

世界帝国の評価

  現在、塩野七生氏の『完全版 ローマ人への質問』(文春新書 2023)を途中まで読んでいる(読書スピードの低下を認めざるを得ない)。 氏の著作は半世紀ほど前にルネサンス期のフィレンツェを描いた『チェーザレ ボルジア あるいは優雅なる冷酷』を刊行時に読んだ程度だから久しぶりもいいところ。 

 氏が現代日本で推しも押されぬローマ史家であることは言うまでもない。好きでなければこれほど古代ローマについて書き続ける筈がないとは予想していたが、読んでみてその通りである。事実、あれほどの大帝国を築いたローマ人の政治的能力が非凡なことは当然だろう(詳細は同書で)。

 しかし、私が大学生の頃読んだJ. ネルーの『父が子に語る世界史』は古代ローマ帝国に極めて厳しかった。それは当時インド独立を目指して大英帝国と戦って入獄していたネルーの立場の反映でもあった。しかしそこにある偏りがあったことは否めない。同書でのロシア革命とその指導者たち(とくにトロツキー)への評価は絶賛と言っていい。しかしその後のソ連がどうなったかを考えればやはり過大評価、むしろ危険な評価だったと言うべきだろう。

 独立運動指導者としてのネルーは立派だし、戦争中に動物園の像を殺してしまった(空襲時に危険との理由)日本に最初の象を贈ってくれた恩人でもあった。戦後来日して大学で温顔を身近に見ることができたが、学部学生には氏の講演を聞くことはできなかった。

2023年8月6日日曜日

ジェンダーレス・トイレの廃止

  『毎日』と『東京』の二紙に、新宿の歌舞伎町の「トー横」ビルのジェンダーレス・トイレが利用者に不評なので男女別に作り替えるとの記事が載っていた。さすが歌舞伎町、最近話題となっている男女別でないトイレが既にあったらしい。それに反対したのは多分女性利用者なのだろう(大半の男性は気にしないだろう)。

 訪ねたことはないが、「トー横」周辺は先進的な?若い男女の溜まり場として知られている。したがって其処の状況をどれだけ一般化できるかという問題は残るが、女性利用者からすれば外見だけ男性で実は女性の利用者と本当の男性との見分けが付かなければトイレ利用に不安を覚えるのは無理もないと思う。

 一般論として社会に現存するジェンダーの壁を破ることは望ましい。しかし、職場などでの男女平等要求とジェンダーレス・トイレの要求とはどれだけ関連があるのか。 もう少し熟慮が必要なのではないか?