2021年10月26日火曜日

日本国民の保守化?

 近づく衆院選について今朝の朝日新聞の予想は「自民 過半数確保の勢い」とある。私も間違っても政権交代はないと予想しているが、自民党単独で過半数とは思い切った予想である。しかし、最新の政党支持率からすれば自然な結論なのかもしれない。

 安倍・菅内閣と計9年も続けばその政策に不満でなくとも有権者に飽きがきても不思議でないのにこの予想とは何ゆえか。昨夕の同紙の『取材考記』という最近新設の?記者名入りのコラムは、「社会への諦めと不安 放置した政治に責任」との見出しでその理由を論じている。

 国民とりわけ若者の保守的傾向ないし政治への無関心は最近ひろく言われており、それはこの欄が挙げる数字でも明白である。近年、諸外国の国民一人当たりの所得が上昇しているのに我が国ではほとんど変化はない。コラム筆者はかつての安保騒動や大学紛争当時のようには現代の若者が怒らないと指摘 する。不満のようだが、その間の我が国の工業発展や貿易自由化により物価は収入との関連では相対的には下落している。古い話で恐縮だが、世界初のソニーのトランジスターラジオは我が家の資力ではすぐには買えなかった。外国旅行はほんの一部の国民にしか可能ではなかった。他方、国際報道の日常化で、世界には国民に十分な食料を供給できない国も少なくないこと、先進国と呼ばれる国でも人種や宗教など種々の難題を抱えていることを国民は知るようになった。国民が守旧的になったのには理由がある。

 しかし、我が国にもまだ達成できていない課題は多い。政府与党に反省を迫ることは必要である。そして選挙はその最大の武器である。

2021年10月22日金曜日

小室家バッシングの裏の動機?

  秋篠宮家の真子さんが婚約者の小室圭さんと3年ぶりに会われたという。三年間も合わなかったとは、小室さんの母堂の不祥事?が無ければあり得なかったのではないか。女性週刊誌が口火を切った小室家バッシングは『週刊文春』や『週刊新潮』に拡大した。内容に目を通したわけではないが、新聞紙上の広告だけでもここまで人格を傷つける見出しが許されて良いのかと感じていた。週刊誌の発行部数は全盛時の三分の一とか。貧すれば鈍すると言うことか。真子さんが皇室の一員でなければ反論も出来ただろうにと同情した。

 最新の『週刊文春』の新聞広告に、「愛子さまが天皇になる日」との大見出しが載っている。目を通した訳ではないから想像だが、週刊誌のバッシングには矢張り皇位継承順位への不満が底流にあるのではないか。私自身もその点では同感するところ無しとしないので。

 以前のブログで君主制の基本原理は血統ではないかと書いた。現在の日本なら愛子さんが天皇位に就くのが自然である (世論調査でもそう考える人が多数だった)。 しかも日本史上に女性天皇は8人10代在位したと聞く( ウィキペディア)。二人の男性天皇の間の中継ぎ役だったとも聞くが、天皇は天皇。

 私は党派を超越する君主制の効用を否定しないので、天皇が国民から敬愛されることが他の考慮に優先すると考える。男性天皇に固執する人たちは皇室への国民的支持を掘り崩すことになるとしか思えない。

2021年10月19日火曜日

柿の木の除去

  これまでもこのブログで言及したことのある庭の柿の木を植木屋に依頼して除去した。半世紀前、緑の無い殺風景な庭に1メートル余りの苗木を京都の種苗店から取り寄せた( 当時は花や苗木を扱うホームセンター的なものは稀だった)。

 隣家から数十センチの場所に植えたのは将来予測を欠いた選択だった。それでも毎年立派な実を多数つけるようになり、食べきれずにご近所にお裾分けしたりした。しかし、木が成長するにつれ枝は隣家にも容赦なく伸びたし、秋の落ち葉の量も年々半端ではなくなった。その上、2年前から熟する前に実がすべて落下するようになり、恩恵も無くなった。

 除去には二人で半日を要した。地上50センチほどで直径30センチの切り株を記念に残した。これで落ち葉に悩ませられることは無くなったが、隣家との距離が狭まった感じがする。必要に迫られて切ったとはいえそこまでは予想できなかった。一長一短とはこのことか!

 柿の木だけではない。思いがけない成長を持て余し気味なのはハナミズキやムクゲや椿など他にもある。狭い庭に植えた私の先見の明の無さを反省するしかない。

2021年10月14日木曜日

『自由を我等に』の斉唱

 今朝の朝日新聞によると、明15日から新宿武蔵野館で1930年代のフランス映画の名匠ルネ・クレールの諸作品が回顧上映される。『巴里の屋根の下』『巴里祭』『自由を我等に』などすべてフランス人らしいエスプリの効いた作品で懐かしい。

 私は戦後間も無くこれらの作品を見た。クレールの作品ばかりでなく、ジュリアン・デュヴェビエ監督、ジャン・ギャバン主演の『望郷』『地の果てを行く』などなど。戦後の英米両国の作品にも秀作は少なく無いが、戦前の外国映画ならフランスとの評価は一般的だったと思う。その中で最も好きな作品はと訊かれると困るが、後味の良さなら『自由を我等に』が断トツだった。

 親友の二人の囚人(AとBとする)が脱獄を図るが失敗し、Aを逃すためBは囚われる。逃亡したAはやがて大会社の社長となるが、そこに刑期を終えたBが再会に来る。AはBがゆすりのために来たと早合点し当初は知らぬ顔を決め込むが、再開を喜ぶだけのBをみて思わず抱き合う。しかし、それは追われる身への復帰でもあり、二人は浮浪者となる。ふざけ合いながらかなたに消える二人の姿は心を洗われる素晴らしいフィナーレだった。

 その後私は二年間、某有名進学校の世界史の教師を勤めたが、もう一人の世界史教師はフィリピン戦の生き残りと聞いていた(本人は何も語らなかったが)。その後数年たち彼の葬儀に出席するため大宮に近い京浜東北線沿線の彼の自宅を訪ねた。葬儀の終わり、現役の教え子たちが突然『自由を我等に』の主題歌を歌いはじめた。「我らの願いは自由よ この世の定めを破り 求るものは自由 朗らかな空のもと いざ行かん我が友.........」。元同僚が授業中に教えたのだろう。生徒たちの心遣いに感心しながら私も声を合わせた。最良の弔辞だと思った。

2021年10月10日日曜日

ノーベル平和賞の効用

  2021年度のノーベル平和賞はフィリピンとロシアの二人のジャーナリスト、マリア・レッサ女史とドミトリー・ムラトン氏に決定した。同賞には過去の実践に対してよりも将来の良き変化を促したいとの願望が込められている場合があり、金正日首席の受賞などその例だろう。しかし今回は表現の自由を守るため生命の危険を顧みない両者の受賞は素晴らしい人選である。

 どちらも強権的政権(ドゥテルテとプーチンの)への批判が受賞理由だが、ドゥテルテ批判に対して私は全面的に賛成して良いか迷う。むろん過剰な権力行使とりわけ無実の人の殺害など是認されて良いはずはない。しかし、中南米諸国の中には麻薬取引を発端とするギャングの跳梁で国民が国外逃亡しつつある国が稀ではない。フィリピンがそうした破綻国家になることをドゥテルテ大統領が阻止している面もあるのではないか? 彼自身も命がけかも........。

 それに対してロシアはゴルバチョフのもと一時期は民主主義国だったし、そもそもギャングが跳梁している国ではない。そうした国で反政権の言論活動を展開したジャーナリストが殺害されるなどあってはならないこと。こんなロシアの現状を見ていると、ロシア革命がロマノフ王朝を滅亡させたことが果たして良いことだったか疑問に思えてくる。

 いずれにせよ今回のノーベル平和賞受賞で政権が両人の命を狙うことはほぼ不可能になったのではないか今はそれが何よりと思う。。

2021年10月7日木曜日

大谷翔平選手の偉業

  米国のプロ野球はまだワールドシリーズ出場をめざす闘いが続いているが、大谷選手とエンゼルスにとってはすでに幕が下りた。大谷にとって投手としての10勝と打者としてのホームラ王の二大目標?は、一時は達成目前と思われたが最後は息切れした。

 目標に到達できなかったことは本人にとってもわれわれ日本人のファンにとっても残念な結果だった。しかし私はそれも悪くなかったと思う。米国の野球ファンにとって球聖ともいうべきベーブ・ルースの記録を凌駕することを彼の地の熱狂的野球ファン( とくに白人の)が快く思うかどうか。私は確信が持てなかった。それに何より26盗塁をはじめ100打点、96四球など総合的に見て大谷がMLBの百余年の歴史に輝く並外れた大選手であることは誰も否定できないから。

 エンゼルスの全試合が終了したので毎朝大谷選手の前日の活躍を確認する?楽しみが無くなった。 日本のプロ野球も昨年までと異なる異変で、日本シリーズ出場の常連の巨人とソフトバンクが苦戦中。 後者はほぼ脱落した。私は常に弱者の味方なので!、今年の両リーグの展開は理想的だが、ヤクルトと阪神のどちらも久しぶりの優勝を応援したいので悩ましい限りである。

2021年10月3日日曜日

野生動物との共存の難しさ

 十日ほども経つか、札幌の市街地でクマによる人的被害があったが、NHKのクローズアップ現代  (9.28)が「史上最多クマ被害 都市出没の謎を追う」と詳しく報道していた。死者が出なかったゆえかメディアの扱いもそれほど大きく無かったが、肋骨を折る通行人(防犯カメラ?に一部始終写っている)など4人の負傷者を出し、市街地でのクマ被害としては史上最多とか。

 かつて無い事件となった理由として番組は、近年の生物多様性の尊重の一環として市街地を取り巻くような植生と水路の「ミドリのネットワーク」が創出されたことを挙げ、クマはそれを伝って市街地に侵入したという。そうしたネットワークに反対する人は少ないだろうが、それが市民と野生動物の不幸な遭遇を生んだとしたら残念なことである。

 もう一つ、射殺されたクマの腹中からサナダ虫が発見されたことは野生のクマとしては初めてとか。その原因として1970年代後半からの「カムバックサーモン」運動が考えられるという。自然環境の改善が思わぬ結果を生んだとすれば残念である。これも野生動物との共存の難しさの一つなのか。

 私は幸い野生動物に襲われた経験はないが、30年以上前、ロープウェイで大雪山旭岳を訪ねたとき、片道ぐらいは自分の足でと思い下山は徒歩を選んだ。ところが家内と歩き出したら意外にも他人とまったく会うことがなく、急にクマとの遭遇が怖くなった。幸い遭遇も襲撃もなかったが、せめて鈴か携帯ラジオを持参すべきだったと深く後悔した。