私は以前から我が国のマスコミが、日本が核兵器廃止を唱えるのが被爆国としての権利か義務であるかのように説くのはおかしいと感じていた。権利といえば我が国も大戦中原爆製造の研究を始めていたが、開発競争に敗れた。もし米国に先んじて開発していたら使用した可能性は大きい。義務ということなら、あへて言えば投下国の側の義務ではないか。
私はこれまでの原水爆禁止運動が無駄だったというのではない。核兵器の残酷さは禁止運動なしには世界の人たちに知られなかったろう。およそ半世紀前、香港かシンガポールでの太平洋戦争のドキュメンタリー映画の上映をテレビで放映していた。フィルムの最後が原爆のきのこ雲で終わると聴衆は大拍手だった。まるで大団円のように。いま両地で同じことが起こらないなら、国際情勢の変化とともに核兵器禁止運動の成果であろう。中南米などに非核宣言地域が生まれたのも同様である。
しかし、現代世界の法の支配も言論の自由も西側諸国の団結と米国の核兵器に護られている現実に目を閉ざして良いのだろうか? NATO諸国はプーチンにほくそ笑ませることを拒んだ。我が国は習近平や金正恩をほくそ笑ませるべきだろうか。
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