2014年2月27日木曜日

ソチ・宴のあと

ソチ・オリンピックは、ロシアが文化的な大国であることを世界に思い出させた開会式をおりこみ、盛況のうちに無事終了した。メディアの関心はもっぱら日本人選手の成績に集中していた感もあるが、私はテロも無く無事に終了したことを何より喜びたい。各国の出場選手たちは勿論、大勢のボランティアにもテロリズムの犠牲者は出て欲しくなかった。もしテロの犠牲者が出ていればプーチン大統領への打撃となっていた(私はそれを望まない)ばかりか、大会の成功を素朴に願っていたスラブ系ロシア人のコーカサス系ロシア人への怒りは永続的な憎しみに変わっていただろう。それは避けられたし、同時に、テロリストたちはほんの一握りの少数者であることが示されたのではなかろうか。ソチやその周辺の厳重警備が無事の原因だとしても、広いロシアの各地で自爆テロを実行することは其れほど困難では無かったろう。それは実現しなかった。

しかし、一難去った(?)プーチンの前にウクライナの政変という別の一難が現れた。政変を伝えるフランスのテレビ(F 2)は、反政府の怒れる若者たちを好意的に報じていたが、ことはそれほど単純だろうか。少なくともヤヌコビッチ元大統領は相対多数にもせよ、国民に選ばれた大統領であり、選挙もない国の独裁者と同列には論じられない。それを力で打倒することは長い目で見てどんな結果を生むだろうか。西側諸国のように一方の側に肩入れして、そうでなくとも脆弱なウクライナの統一を危うくすることが賢明な態度だろうか。
元大統領の「豪邸」が紹介されているが、元は公邸だったということなら、どこまでが私有化後の増改築なのかが分からないなら軽々に判断できない。元大統領が浪費家だったことは否めないが、彼の前任者たちとの違いが程度の差以上だったかは、これだけでは何とも言えない。

ウクライナの財政は既に破綻寸前だった。ロシアが新政権にこれまでのように世界標準の三分の二の価格で天然ガスを売るとは考えにくい。西側諸国も今は新政権を経済援助するだろうが、もともと余裕がある訳ではない。そのうちウクライナは厄介もの扱いされないであろうか。
もっと危険なことはウクライナの分裂である。クリミア半島はフルシチョフ時代にウクライナに突然譲渡された。その理由は今ひとつはっきりしないが、フルシチョフがソ連の崩壊によるウクライナの独立(とクリミア半島の喪失)を全く予想していなかったことは確かである。クリミア半島はロシアにとって百数十年来の軍事基地であり、住民の大多数はロシア人だという。そうした経緯を考えればロシアがクリミアを簡単に手放すとは思えず、西側諸国とロシアの関係の悪化は避けられない。たとえ部分的でも冷戦への逆戻りは御免蒙りたい。それは誰の利益にもならない。

2014年2月23日日曜日

大雪のあと考えたこと

ご存知の通り関東地方は二度の大雪に見舞われた。東京の都心部では積雪量は二度とも27センチだったそうだが、拙宅のある多摩東部では前回は都心と同程度だったが、今回は三十数センチはあった。それでも一メートルを越えた山梨県などに比べれば、泣き言など言っていられない。

今回は泣き言を言いたいのではない。関東各地の雪害とくにハウス栽培への打撃がテレビなどで報じられた。そうした農家の被害と心労は大変なものであろう。しかし、山梨県のぶどう作りのハウスの被害を見聞する度に、そもそもぶどうにハウス栽培が必要なのかとの感想を禁じえなかった。

むろん野菜の供給にハウス栽培を除外することは最早非現実的だし、ぶどうの場合も早期栽培で少しでも多くの収入を得たいとの関係農家の願いは無理も無い。むしろ高価でも早く食べたいというわれわれ消費者の方に問題を感ずべきかもしれない。しかし、いちごのハウス栽培の場合、私には被害農家への同情を感ずることができない。

むかし、いちごは晩春から初夏にかけての果物だった。それがハウス栽培の普及でその時季には店に見かけなくなった。冬にいちご栽培をすることに反対しないし、反対出来るものでもない。しかし本来の旬の季節に店頭に無いのは行き過ぎとしか思えない。冬のいちごの高価な果物との印象を貶めないためと勘ぐりたくなる。そこには消費者への配慮は感じられない。政治家には間違っても大雪被害のイチゴ農家への被害補償など言ってもらいたくない。

2014年2月21日金曜日

国連の北朝鮮人権調査委の報告

国連の北朝鮮人権調査委員会の報告が北朝鮮政府を「人道に対する罪」を犯していると判定した。紛争中でもない平和時に、個人や集団ではなく一国の政府を「人道に対する罪」と判定し、しかも国際刑事裁判所に訴えるよう各国に促すとは前代未聞ではなかろうか。

一般論として私は人権侵害を理由として他国を非難したり、それを止めさせるためとして武力介入することに軽々に賛成したくない。とくに米国やフランスのように他国の人権問題に判定者面するのはいただけない。例えばシリア内戦に軍事介入して同国の政治が良くなる見通しがあるのだろうか。英国議会がシリア爆撃に待ったをかけたのは、これまでの同様の介入で自国兵の少なからぬ犠牲を出した挙句、感謝もされなかった経験にうんざりしていたという側面も否めない。だが、米仏両国の人権の母国意識や、それに基ずく人権重視誇示競争に付き合いきれないと英国議会が考えたことも大きいのではなかろうか。米仏両国はシリア政府の毒ガス使用が許せないと言うが、イラン-イラク戦争でフセインが長期に渡りもっと大規模に毒ガスを使用した(自国のクルド人にも)とき、両国は本気で反対しなかった。とてもその主張を額面通りに受け取れない。

とはいえ、現在の北朝鮮政治の状況は狂態という表現がふさわしい。私は人権調査委員会の報告に全面的に賛成である。これまで金王朝を陰に陽に支えてきた中国の責任は途方もなく重い。仮に過去を問わないとしても、二十一世紀の大国としての中国の道義的正当性が今後は問われるだろう。

2014年2月16日日曜日

道徳の教材に異議

新聞によれば文部科学省が新しい「道徳」の教材を公表した。内外の人物伝が大きな要素になるという。私は成績をつけるのでなければ道徳の授業があって良いと考えることは前に述べた。その時念頭にあったのは尊敬に値する人物の紹介であったので、その点で異論はない。しかし、例示されている18人の名前には大いに異論がある。

第一に現に生存する人物が6人(日野原重明、澤穂希、内村航平、松井秀喜、曽野綾子、山中伸弥)を数えること。しかし、現存人物の評価は今後大いに変わる可能性がある。(唯一の例外は、自然科学の業績が確かな山中伸弥氏) やはり棺を蓋って評価は定まるのではなかろうか。さらに年若い三人の場合、彼らの今後の人生をあまりに束縛することになる。将来、離婚もできなくなる!!

私は彼らよりもネルソン.マンデラや杉原千畝を優先すべきだと考える。マンデラが新国家で白人を排斥しなかったのは、国家運営に彼らの協力が必要と考えたことも大きいだろう。しかし、それにしても獄中27年(?)の恨みを抑えることがどんなに大へんなことかは想像に難くない。稀有な人物と言うべきであろう。
杉原千畝は「日本のシンドラー」などと呼ばれるが、真の人道的動機という点で私はシンドラーよりも杉原の方が上ではないかと思う。シンドラーの場合、将来の敗戦を見越してユダヤ人を助けた面もあったのではないかと邪推(!)している。ナチ政権下で、親衛隊の将校が敗戦を見越して国内のソ連のスパイ活動を摘発しなかったばかりか、自分の名前を忘れないでくれと頼んだ例を知っているからである。(ベレズホフ「私は、スターリンの通訳だった」同朋舎出版)
それはともかく杉原には本省の命令に反してユダヤ人にビザを出すことは、自分の経歴へのマイナスになりこそすれ、何の利益もなく、全くの人道的考慮(ないし彼の信ずる国益)に従ったのである。むろん官僚は政治の決定に従うべきだが、例外のない規則は無い。日本が世界に誇ってよい人物を忘れてはなるまい。

2014年2月7日金曜日

ケネディ米大使にがっかり?

キャロライン・ケネディ大使が日本のイルカ漁に苦言を呈した。当面はイルカ漁が大使の標的だが、捕鯨も次の標的と予想すべきだろう。あのケネディ大統領の愛娘で親日家が大使として赴任すると歓迎一色だった日本人の一人として鼻白む思いがする。イルカ漁への批判が特に激しいのは、遠い南極海での捕鯨と違い目前の浜辺で血が流されることもあり、また近年イルカの知能指数が意外に高いと知られたこともあろう。それにしても、米国はむかし散々捕鯨に励んで物資補給のため幕末日本に開国を迫ったと言われる。大使の「歴史認識」を問いたくなる。

とはいえ、韓国では犬料理が好まれていると聞けば顔を顰めてしまう日本人が少なくないのでは。食材として飼育された犬と聞くので、牛や豚を食べるのと違いはない。犬は有史以来の人類の友だったと言っても牛や豚も同じようなもの。要は食習慣の違いに過ぎない。私自身イナゴは食べられるが、殆ど見分けがつかないバッタを食べさせられたら怒るだろう。

私宅から三十分ほどの百草園への道は、これが東京の一部かと思うほど牧歌的(?)で、じじつ乳牛を飼う牛舎がある。そこの牛とくに子牛を見ると、これより可愛い動物が居るだろうかと思う。何年かのちにそれを平気で食べている自分を想像すると内心忸怩たるものがある。聖書で(?)家畜とされる牛や豚は食して良いが、鯨やイルカはいけないと欧米人が責めるのは身勝手だが、近海はともかく南極捕鯨まで日本の食文化だと言うのも通りにくい理屈ではある。人間が感情の動物でもあることを考えると、規模の縮小をはかる以外の名案は無いようだ。

2014年2月4日火曜日

日本に高級紙(quality paper)は無い

今朝の新聞を読んでまた始まったと思った。「高梨、ジャンプ本番に万全」との大見出しの下に、女子ジャンプ競技の高梨沙羅選手が「万全の態勢でソチに向かう」との文章が載っている。しかし、世界の強豪が集まり何が起こるか分からないのがオリンピックである。オリンピック競技の勝敗に「万全」などある筈が無い。
高梨選手が世界のライバルの誰よりも金メダルに近いことは世界が認めていよう。しかしジャンプ競技は風向きやジャンプ台の相性など、謂わば変数の多い競技であり、第一人者の高梨といえども万全ではあり得ないし、彼女自身それをよく知っていよう。17歳(?)の少女を国民の期待で押しつぶすような報道は慎むべきである。

実際、過去にも水泳の古橋、橋爪やスケートの黒岩徹選手のように新聞に過大に書きたてられ、国民の期待に押しつぶされたとしか思えない選手は数知れない。戦前のベルリン.オリンピックの前畑秀子選手は、金メダルが取れなければ生きて帰国することは考えていなかったと後年語っている。痛ましい限りであり、今日の選手にそのまま当てはまるとは思わないが、選手を過剰な期待で追い詰めてはならない。

スポーツ欄の記者がオリンピックは水ものであることを知らない筈が無い。それが分かって居ながら「万全」などと書くのは日本の大新聞が高級紙(quality paper)ではないためである。英国の「ザ.タイムズ」、フランスの「ルモンド」等に代表されるクウォリティ.ペイパーは、発行部数が数十万部で日本とは一桁違う。数百万部の新聞は否応なしにセンセーショナリズムに傾く。これは宿命と言ってよい。高梨選手や上村選手はどんな成績でも胸を張って帰国してほしい。尊いのはこれまでの努力であり、結果ではない。