2025年2月24日月曜日

ウクライナ戦争の行方

  今日2月24日でウクライナ戦争開始から満3年になるという。それと関連してか昨日録画しておいたNHKの『臨界世界 On the edge  女性兵士』と、放映中の『世界ドキュメント 前線兵士』を見た。どちらも(とくに前者)は林の中でロシア兵と対峙する女性兵士の記録、後者は銃後のウクライナ人の苦悩を中心に取りあげていた。

 どんな時代でも数十メートル先は敵陣といった最前線は兵士に強い緊張を強いるが、ドローンによる攻撃への警戒は極限の緊張を強いる。悲惨な現場にはウクライナ兵もロシア兵も違いはないだろう。

 トランプ米大統領の親ロシア的な動きにロシア側も呼応した動きを見せており、まもなくウクライナを置き去りにした米ソ間の対立緩和に向かいそうだ。ヒトラーの脅迫に英仏がチェコスバキアに領土の一部を譲歩させた悪名高いミュンヘン協定への言及もメディアに現れるようになった(確かにカタチとしては似ている)。

 しかし、領土的譲歩は一切しないとのウクライナとくにゼレンスキー大統領の立場にはもともと無理がある。クリミア半島にはロシア皇帝の離宮があり、そこでルーズベルトとチャーチルとスターリンのヤルタ会談が開催されたし、同地には晩年ここに住んだチェホフが名作『犬を連れた奥さん』などを書いた。ウクライナがそれまでウクライナ語とロシア語を国語として認めていたのにロシア語を国語として認めず、東部諸州のロシア語人口を怒らせ、クリミアとならび紛争の原因となった。

 それはともかく、ロシアと西側諸国の対立が深まれば第一次世界大戦のようにズルズルと大戦に巻き込まれかねない。これまで広島長崎を中心とする被団協の訴えを一顧だにしなかったノーベル賞委員会が突然受賞者に被団協を選んだことはどれほどこの先を案じたかを示している。

2025年2月21日金曜日

ウクライナ戦争の報道の偏向?

  新聞とテレビの何れかを問わず、戦後の我が国のジャーナリズムは報道の自由を享受してきた。しかし、最近明らかとなった芸能界の不祥事のように、報道の自由に自らくつわを嵌める事態もないではなかった。それが内外の政治情勢に関しても起こりうるとしたら影響は黙視できない。

 未だに終わらないウクライナ戦争に関して私は24年10月1日の本ブログで「ウクライナ戦争の行方」のタイトルで、過去のロシア報道というと必ず新聞などに論評が載るロシア史の長老たち?の意見が全く見られないのは、彼らが「一方的なロシア断罪に合意できない、したくないからでは」と書いた。あまりに不自然に感じたからである。今日、たまたま情報端末で旧世代のW東大名誉教授を調べたら、氏の発言に接し、私の想像が誤りでなかったことを知った。

 W名誉教授ら旧世代のロシア史研究者たち14名が、現在の報道が一方的なロシア非難に傾いているとの声明を発表したが、若い世代の発言者たちの怒りを買ったとのこと。

 私は長老世代の人たちの意見に近いのではと思うが、仮に逆でもよい。問題はこの意見対立がメディアに全く報道されず、若い世代の意見だけが報道されているかに見えることが大きな問題だと言いたいのである。政治報道の分野でも芸能報道の隠蔽と同じことが起こっていないか。そうだとしたら、我が国のメディアは同種の誤りを何度繰り返すのだろう。

2025年2月16日日曜日

醜悪な独裁国北朝鮮

  NHKテレビで13日に放映された『蓮池薫23年目の告白』を録画して見た。あらためて北朝鮮の金王朝の醜悪さを感じさせられた。

 拉致されてから半世紀近く、蓮池さんは今も帰国できない12人の運命を考え知っていることの全てを語ることを避けてきた。現地で横田めぐみさんとかなりの期間交流があったことは新事実ではないようだし、拉致された日本人を対日工作員に仕立てるための教育を7年目ぐらいに断念したらしいとの事実も蓮池さんには大きな変化だが...........。私には蓮池さんの誘拐犯がその頃から自らの行為の正当性に自信を失っていったとの発言が心に残った。

 本家ソ連の共産主義独裁が崩壊したのち、多くの共産主義国が独裁を離脱したのに、北朝鮮はむしろ独裁を強化したかに見える。私の目には北朝鮮軍の文字通り一糸乱れぬ行進や、金主席が姿を現した時の民衆の熱狂(むしろ狂態)は私には醜悪の極みとしか思えない。金王朝への忠誠に僅かでも欠けると見られるのがそれほど恐ろしいののかと想像してしまう。ドイツ国民のヒトラーへの熱狂ぶりは同程度であってもそこにあった自主性(無論それも問題だが)も北朝鮮の国民にはないと思う。私には北朝鮮の人たちがそれほど愚かとは思えない。

2025年2月11日火曜日

バンカラ気質の残る北大?

 建国記念日の今日は体調が今ひとつだったので日課の図書館での新聞読みに行かずテレビ漬け。NHKの大谷特集番組も楽しかったが、ほぼ同時刻なので録画して見たBSの『新日本紀行』の「札幌」も面白かった。

 実は番組は昭和50年放映の『都ぞ弥生』の再放送で、テレビ番組表の「札幌」でもなければ北大の紹介番組でもなく、同大学の「惠迪寮」が主題だった。大学の学生寮の内部の乱雑さは70年前の私の出身大学の寮に友人を訪ねて知っていたが、惠迪寮の場合、寮生たちが赤ふんどし姿で札幌の中心街を練り歩いたとは知らなかった! 旧制高校のバンカラ気質はわずかに北大に残っていたのである。北大生への札幌市民の敬愛度は他地方の大学生へのそれとは相当違ったようだ。

 北大生と言っても寮生は北海道以外の出身者が多かったろう。他大学では既に廃れつつあったバンカラ気質が残っていたのはやはり北海道への憧れとともに、札幌農学校以来の歴史と伝統への熱い想いが他大学の比ではなかったのだろう。しあわせな大学である。


2025年2月5日水曜日

生産者と消費者 国民の二面性

  トランプ米大統領の高関税政策(当面はメキシコ、カナダ、中国が対象だが)は本来の自国産業保護だけでなく、間接的ながら「不法移民」の入国阻止を狙っている。むしろ後者の目的が主なのかもしれない。しかし、前者の比重が小さいとも言い切れない。

 第二次世界大戦の一因として自国本位の高関税政策が指摘され、戦後は自由貿易(自国経済の開放)が善とされた。じじつ、百円均一の店の商品の驚くほどの低価格は自由貿易の結果と見ても良いだろう。しかし、国民には消費者の面と生産従事者の側面がある。メキシコやカナダで生産された自動車は米国自動車工業にとって打撃ともなり、従業員への負の影響は小さくあるまい。

 そうした実利の側面をさらに歪めた例が新日本製鉄によるUSスティール社の買収紛争だろう。後者の現在の米国内での生産比率はヒトケタとも聞く。新日鉄による同社の買収はむしろ再生の端緒ともなりうる。しかし同社はUSスチールの名の通り多年、米国の製鉄業のシンボルでもあった。それが新日本製鉄の援助にすがるとは米国人に屈辱と受け取られたようだ。さらにそれが全米製鉄労働組合の買収反対の火に油を注ぎ、民主と共和両党の選挙対策と重なり、買収反対一色となった。経済合理性よりも国民感情が重視された不幸な事件となったが、米国民だけの問題でないことは確かである。