2024年1月25日木曜日

 「友軍の砲火」による死

  最新の報道によれば、ロシア軍の捕虜となっていたウクライナ兵65人を乗せたロシア軍の輸送機がウクライナ軍のミサイルにより撃墜され、ロシア人の関係者9人を含め全員が死亡したという。ウクライナ側はまだ責任を明言していないようだが否定もしていない。戦場の混乱の中では友軍を攻撃してしまうことはあり得ること。英語では (death by) friendly fireと呼ぶ。戦死はどんな場合も心痛む災難だが、ようやく故国に帰る喜びに浸っていたであろうウクライナ兵には何ともむごい結果だった。現在の戦争に終止符が打たれない限り、類似の状況下での死は続くだろう。

 ソ連の解体以来、西側諸国はロシアを敵視はしなかったが大国の待遇を認めることをせず、ロシアの自尊心をいたく傷付けた。NATO加盟国は15カ国から30カ国に増え、ウクライナが31カ国目となることをロシアが甘受すると思うほどに鈍感になっていた。ウクライナ戦争は3年目に入っても終わる兆しが見えず、両国民の苦難は続いている。またウクライナ危機は国際政治における中国と北朝鮮の地位をますます向上させている。

2024年1月19日金曜日

大戦下のパリの日本人たち

  新聞の新刊書の広告で藤森晶子著の『パリの「敵性」日本人たち 脱出か抑留か 1940ー1946』(岩波書店)の公刊を知ったので早速購入した。第二次大戦中のパリはその大半の期間中、ドイツ軍とそれに協力させられたフランス政府の統治下におかれた。日本はその時期のほとんどドイツの同盟国だったので、パリ在住の日本人たちは食料の特配を受けるなど、生活に苦しむパリ市民の羨望の対象となった。

 大戦下でドイツ兵と親しく付き合ったためパリ解放後に丸刈りとされたフランス女性たちの研究書の著者である藤森氏は、たまたま群集に捕まり引き立てられる日本人の写真を見て、ドイツ軍占領下の在仏同胞の徹底調査を志した。私は同時期のフランス政治(とくに対独協力派)について半世紀前に学会発表をしたことがある。しかし本書によりパリに残留していた少なくない数の日本人について教えられること多大だった。

 ドイツの敗北の兆しが感じられたとき、ギリギリでパリの日本人たちの大半はシベリア鉄道で帰国することができた( 当時のソ連は日本との交戦国ではない)。 しかし、夫人がフランス人だったりフランスを熱愛したりでパリに残留した人たちは「敵性外国人」として少なくともフランス政府には敵視された。著者の多大の努力にもかかわらず、写真の引き立てられる日本人の素性は明らかにならなかった。ところが後日、その写真を見たベトナム人はこれは自分の同胞に間違いないと主張した! 真相は確かめようが無いが、たとえ日本人でなかったとしてもそれが機縁となって重厚な一書が誕生したことを祝福したい。

2024年1月12日金曜日

盛岡の魅力

  もう一年前とはむろん知らなかったが、ニューヨーク・タイムズの特集記事で盛岡市がロンドンに次ぐ世界で2番目の都市として紹介された事実が最近になって話題を呼んでいる。今朝の朝日新聞が「海外の目 足元の『価値』を照らす」との見出しで大きく取りあげている。鎌倉市在住の米国人作家の紹介が端緒とのことで、権威ある調査機関が選んだわけではないし、盛岡市民自身が「うそだって」、「盛岡でいいの?」と口をそろえているように、大方の日本人にとっても意外至極だろう。

 私自身は東北旅行の途次に複数回訪ねている他に、勤務先の大学の初代学長の新渡戸稲造の学内研究会の活動の一環として、盛岡市内の『盛岡市先人記念館』(視察当時はたしか『三偉人記念館』という名称で新渡戸稲造と米内光政と金田一京助の3人が対象だった)を訪ねている。

 しかし、平均的日本人が盛岡の名で思い出すのは、わんこそばや南部鉄器もさることながら、やはり石川啄木と関連する岩手山と北上川と不来方の城跡ではないか? 新渡戸稲造との縁の深い職場に奉職した身で失礼は承知の上でだが、花巻の宮沢賢治と共に文学作品の持つ影響力の大きさをあらためて痛感させられる。

2024年1月9日火曜日

図書館員への長い苦言

  一昨日、駅前の図書館分室で日課の新聞読みをしていたら一見紳士風の男が若い女性の館員に抗議を始めた。低い声なので原因は分からなかったが、おそらく、格別に北西風の強い日なのにそちらに面した窓( 15度ぐらい開く)が全開だったことへの苦言だったろう(翌日は閉まっていたので)。 私自身当日窓に近い机付きのその席を避けたので、館員への注意は不当ではないが、彼女はおそらく規則に機械的に従ったのだろう。それにしても10分近い苦言で館員が気の毒になった。しかし、割って入れば矛先が私に向かう可能性は低くない。それも困るのでしばらく仲裁の文言をあれこれ考えた挙句、「図書館への注意には時間制限があって良いのでは」と言ってみたら、相手は意外におとなしく抗議をやめた。館員がお礼を言いに近づいてきたので目配せして制止した。紳士の怒りが再発しては困るので。 おかげで昨日も今日も紳士とは何事なく済んでいる!

2024年1月4日木曜日

驚きの元旦

  年の初めの元旦に大きな災害と肝を冷やす事故が発生した。能登半島には私は史学科の研修旅行でとプライベートな旅行と二回訪ねており、変化に富んだ自然と独特の地方文化など充分に楽しんだし、他人にも自信を持って推奨できる旅行先だった。天災からの最速での復興を願うばかりである。

 震災だけでも驚きなのに同じ日に時間をおかず羽田空港で航空機事故が発生するとは......。   しかも能登の災害地への物資輸送の海上保安庁の職員たち数名がその犠牲になるとは。死者のご冥福を祈るしかない。私は寡聞にして空港での運行指示が英語とは知らなかった。それが事故の一因でなければ良いが.............。私は機長の責任を厳しく問う気にはなれない。

 それに対して日航機の乗員と乗客379人が全員無事だったことは驚きであり、外国紙が奇跡だと報道しているのもむべなるかなと思う。幸運もあっただろうが、地道に訓練を重ねてきたcabin attendantたちの沈着さと恐怖を抑えて彼女らの指示に従った乗客たちも立派と評するほかない。外国での日本人の評価を一挙に高めたのではないか? 国民栄誉賞の条件は知らないが、年末の日本政府の表彰に日航の乗務員たちの表彰は欠かしてはならない!

 

 

2024年1月2日火曜日

年賀状あれこれ

  アイスランドの首都の風景を皮切りに18年間 (2004年~2022年)、写真入りの年賀状を作ってきたが、一昨年秋に風景写真集『一期一会』を自費出版したのを機会に昨年は最後の写真無しの賀状を出し、これで打ち止めにすると告げた。百余枚程度になった宛名書きが面倒になったからだが、今年は例年の3分の1程度になりそうだが賀状を頂いている。中止宣言?を失念されたか、返しはなくとも自分は出すとの意向なのか分かりかねている。さしあたり版画などの自作を取り入れた賀状だけには此方も出さなければと考えている。しかし、私の賀状が届かない方も私が有り難く思っていることは知ってほしい。身勝手かも知れないが。

 18年間、私の写真入り賀状の注文を受けてくれた写真店も去年閉店した。写真入りの賀状など自作する人が増えたのか。 念のため店主の名刺だけは頂いておいたが、再会はおそらく街頭での偶然だけだろう。時々は私の2冊の写真集を開いて「徒然なるまま」を埋めてくれたらと思っている。