2022年4月12日火曜日

 「バターン死の行進」の評価

  今朝の朝日新聞の「声」欄に、「死の行進 今は『勇者の日』に」との見出しでフィリピンの日本人学校の教員の方の投書が載っている。 氏は同国の祝日「勇者の日」が、1942年4月のいわゆる「バターン死の行進」の記念日であったと知って驚き、みずからその由来となった道を訪ねたという。

 旧日本軍が米比連合軍の捕虜を3日間歩かせ多くの死者を出した事件として、真珠湾の奇襲攻撃と並んで米国に日本人の邪悪さの実例として徹底的に利用された。細部に関しては輸送のためのトラック手配が一部実現していたか否かなどはっきりしないが、多くの米兵やフィリッピン兵が亡くなった事実は否定できない。そのため戦後、本間雅晴司令官以下の何人かが戦争犯罪の罪で死刑となった。

 しかし、家永教科書裁判で政府の教科書訂正命令と闘い、また日本の戦争責任や戦争犯罪を追求して戦後の進歩派知識人の代表格の一人だった家永三郎教授は、その著書『戦争責任』(岩波書店 1985)でバターン死の行進を果たして戦争犯罪と呼べるかどうか迷うと書いている。日米開戦後、米比連合軍はバターン半島の要塞に立てこもったが、次第に食糧不足やマラリアの蔓延に苦しみ、4ヶ月後に降伏した。しかし日本軍を驚かせたのは予想をはるかに超える捕虜の数であり、受け入れ準備不足のままの捕虜収容所までの3日間の行進に耐えられず多くの死者を出した。フィリッピン派遣軍の司令官の本間雅晴将軍は日本陸軍きっての人格者だったが、シンガポール攻防戦で英軍を破った山下奉文司令官(大戦末期のフィリッピン派遣軍の司令官でもあった)とともに死刑となった。植民地民衆の前で宗主国の面目を失墜させた両人は何としても死刑に処しなければならなかった。

 司令官クラスだけではない。後の京都大学教授の会田雄次氏は日本降伏後、英国支配下のビルマで道路工事を始めとする強制労働に服した(同氏 『アーロン収容所』 中公新書。のち中公文庫)。国際法は戦争終了後の捕虜の速やかな帰国を定めていたが.....。もっともこちらは戦争中ではあるが、映画「戦場にかける橋』に描かれているように日本軍の連合具捕虜の扱いは劣悪だったので、その報復でもあったのだろうが。

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