スエズ地峡に運河を通し欧亜を結ぶとの構想は古いらしいが、それを実現したのは外交官兼事業家のフェルディナン・ド・レセップスと彼を後押ししたフランスの第二帝政 ( 皇帝ナポレオン3世 )だった。苦心の末だったが、エジプトの宗主国オスマン・トルコと大西洋航路重視の英国の妨害工事を排して運河を開通させたレセップスは英雄となった。
ついで開通が目指されたパナマ運河は当然のようにレセップスとフランス ( 帝政は倒れ第三共和制になっていた )が事業主体となった。しかし、スエズには無い高地越えの困難と黄熱病流行により開通は困難を極め、最終的には米国により完成された。しかし、工事を完成したかったレセップスは工事期間を延長するため政治家たちにカネをばらまく「パナマ疑獄」を起こし刑事被告人となった。
工事を引き継いだ米国はフランスの土木技術の高さに驚き、なぜ途中放棄したのかいぶかったという ( 大佛次郎 『パナマ事件』1960年 )。フランスでは、ナポレオン帝政はスエズ運河を完成させたのに共和制はパナマ運河を完成できなかったと、右翼の格好の宣伝材料となった。世論を無視できない民主政の辛さである。