2014年1月16日木曜日

川上哲治が一塁手だった頃

去年秋、川上哲治が亡くなった。巨人軍監督としてプロ野球界でいわば位人臣を極めた彼なら呼び捨てにするのは躊躇するが、私がこの目で見たのは一塁手川上だった。

戦後すぐプロ野球が再開され、確かその年は若林、藤村らを擁した阪神が優勝した。その翌年、まだ名古屋ドームはおろか中日球場も無かった時代、中学生だった私たちは巨人阪神のオープン戦のため鳴海球場に足を運んだ。また、その二、三年後、同じ球場で正規の巨人阪神戦を見た。オープン戦では伝説の若林ら阪神投手陣が巨人を抑え、翌年の正規戦でも巨人軍は阪神の梶岡という好投手に完全に抑えられ、巨人ファンだった私をがっかりさせた。しかし、セカンド千葉やショート白石の華麗な内野守備、(初代?)塀際の魔術師と言われたレフト平山のプレーなど目に焼きついた。不思議な縁と言うか、のちに平山選手の姪と知り合いになり、今でも年賀状を交わしている。結局、川上らしい打撃ぶりは見れなかったし、のちの巨人九連覇の時代は熱心なアンチ巨人だったので、球場に足を運ぶことも無かった。
その巨人全盛期だったか、偶然ラジオで草創期のプロ野球選手四、五人の座談会を聴いた。その中でセネタースの名セカンド苅田久徳だったか、大学卒業後なにを職業にするか考えていたところ、職業野球が発足したと聞いた。卒業後も野球を続けられると知って天にも昇る気持ちで、給料の多寡など考えもしなかったと語っていた。私をファンにさせたのは彼らが心から野球を愛していたからだと納得し、感動を禁じえなかった。

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