2014年12月16日火曜日

家康の特許状

毎年一回? 二年間留学した英国のカレッジの通信Newsletterが送られてくる。離れてから五十年近くともなればカレッジの近況にそれほど関心も持てないので、丁寧に目を通すこともなく屑篭に放り込んでいた。しかし今回はカラー刷りで28ページの特別版だったのでさらりと目を通したら、日本語の立派な手紙の写真が載っていた。説明文を読んだら400年前家康が英国人に貿易と居住を許すとした七箇条の特許状だった。1985年に大学 (University )図書館で見つかったのだが、中国関係の文書ファイルに紛れていたのだという。達筆で私には読めないが、専門家が見たら何がしかの発見があるかもしれない。

通信の最後のページにカレッジへの今年の寄付者 (250人ほど )のリストがあった。春ごろのブログに書いたように私もその一人なので、Hの箇所を探したら私の名前もあった (ためしに他に8人の同胞の名前があった )。これでオレオレ詐欺でなかったことは確認できた!

リストの反対のページにカレッジの初代学長のDeakinを記念する会の記事があった。入会すると行事への招待などの特典があるとか。氏の温顔には何度か接したが出席する可能性もないだろう (寄付要請が怖い? )。氏は日本学者のR.ストーリーとの共著でゾルゲ事件を書いている (河合秀和氏の邦訳有り )。
氏は第二次大戦中、ユーゴスラビアの反独レジスタンスとの連絡のためドイツ軍占領下の同国に落下傘で降下した。英国では戦争中、外国語の出来る知識人は諜報活動に従事した人が少なくないが、ここまでした人は少ないだろう。

2014年12月14日日曜日

日本語の劣化を防止せよ?

内舘牧子の『カネを積まれても使いたくない日本語』( 朝日新書 )をテレビの『久米書店』(久米宏の書評番組らしい。始めて視聴 )で取り挙げていた。一度読みたいと思っていたので買わないで済ませようとチャンネルを回した! 番組での内容紹介によると、1 ) チョー、やっぱ、ぶっちゃけ、マジ、ヤバイなど若者から広まった短縮語系?   2 ) とか、みたいな、かな、などを語尾につけてハッキリ物を言わない言い方、  3 ) 「お訴えさせて頂く」式の政治家や、客商売のマニュアル通りの表現など過剰なへりくだりの三種に分類されていた。しかしテレビでは2と3が主として槍玉に挙がっていた。

私は、2は相手との意見の対立を緩和しようとする日本的な便法でそれほど不快でも無かったし、3も日本語に悪影響を与えるほどではないと思うが、1は日本語劣化に一役買いかねないと考えてきた。「言葉は生きている」ことは認めざるを得ないとしても、短縮系で何れだけ時間の短縮になるというのか( むろん短縮自体が目的ではないと思うが )。さらに言えば、「真逆」、「自分的には」、「メーン」など、これ迄の「正反対」、「自分としては」、「メイン」では何がいけないのか! 

最後の「メーン」は某新聞が用語をこれに統一したようなので (他のメディアはそうではない )、せっかく原語の発音により近く、「メイン・ダイニング」、「メイン・コース」など広く使われているのに何故かと投書したが無論不採用となった。その後調べたら、岩波の「広辞苑」や「国語辞典」が「メーン」を採用していると知った。岩波文化をやたら有り難がる新聞とは知っていたが.....。ところが二、三日前に「メイン」が複数回使用されていた。これが良い方向への変化だったら良いのだが。


2014年12月11日木曜日

米国の人種差別

米国で黒人が白人警官に殺される事件が相次いでいる。ケースごとに地域の実情は異なるようだが、結果として不審行動ないし不法行動中と見なされ、あっという間に殺された点は共通している。銃が簡単に手に入る米国では日本の警察官のような慎重な行動を求めることは実際的ではないだろう。だが、それにしても警官が簡単に発砲するとの印象は強い。黒人たちが憤るのも理解できる。オバマ大統領の立場はひときわ苦しい。

人種差別とりわけ黒人差別は米国の宿痾と言ってよかろう。独立宣言の「すべての人は平等に造られた」のすべての人に黒人( と女性 )は含まれなかった。「建国の父祖たち」にはジェファーソンら奴隷主が少なくなかった。例を挙げだしたらキリが無いが、民主主義を標榜して戦われた二つの世界大戦の時代でさえ人種差別状況は続いていた。真珠湾攻撃の飛行総隊長だった淵田美津雄の回想録によると、敗戦後、GHQに呼び出され尋問された際の相手の一人は真珠湾攻撃の体験者だったが、これだけ見事な作戦がジャップに出来るはずがない、ドイツ人が指揮したのだろうと当時考えられていたと語った。その何日かのち、黒人兵に都心のビルに連行された。最悪の場合も覚悟したが、着いた先は黒人兵専用のバーで、何故連れて来られたか分かるかと聞かれた。分からぬと答えたら、世界で一番真珠湾攻撃を喜んだのは米国の黒人だったと告げられ、歓待された!


法律は変えられても人の心は簡単ではない。それでも状況の改善は不可能ではあるまい。英国に留学していた1960年代の中ごろ、あの独特の帽子のロンドン警官にインド系英国人が初めて採用され、本人も誇りを感じていると新聞で読んだ。事件のあったミズーリ州ファーガソンの人口は黒人が三分の二を占めるのに警官は白人50人、黒人3人だった。対策の第一歩はこの比率を人口比でとは言わないとしても大幅に変えることだろう。容疑者と黒人同士であればもっと冷静に対応できるだろうし、黒人の高い失業率を僅かでも改善できる。対立感情を緩和することが何より重要だろう。

2014年12月10日水曜日

早速訂正!

書いたばかりのブログ「オリンピックの岐路」にサッカーのW杯やテニスのウィンブルドンの廃止と書いたのはオリンピック種目からこの二種目を廃止せよの打ち間違いです。悪しからず!

オリンピックの岐路?

平昌の次の?冬季オリンピックの開催候補地の辞退が相ついでいるという。夏季オリンピックは未だそうなっていないようだが、やがてそう成り兼ねない。理由はかなりはっきりしている。大会の規模が巨大化した結果、開催費用が莫大になり、中小国の都市は負担し切れなくなったのである。国民が多額の出費に反対するようになったのはある意味で健全である。

各競技の関係者がオリンピックの実施競技に選ばれたいと願うのはよく分かる。女子ソフトボールが北京オリンピックで優勝した時と、世界選手権で優勝した時( 確かロンドンオリンピックとほぼ同時期 )のメディアの扱いの違いは、こうも掌をかえすような扱いが出来るのかと、傍観者の私が義憤を覚えるほどのものだった。そうした現状のまま一部の国しかオリンピックを開催出来なくなるとしたら、オリンピックの理想に反する。

素人の私が知る限りでも種目別で以前はなかったリレーなどが増えた。その結果、日本人に不利な陸上短距離で多年努力してきた朝原選手らがメダルを手にしたのは嬉しかったが、全体の規模の拡大は無論維持さえも問題を含んでいる。サッカーのW杯やテニスのウィンブルドンのようにオリンピックよりも選手が重視する大会は廃止して良いのではないか。

当面はせめて国威発揚をねらった華美な開会式や閉会式は抑えたい。東京オリンピックはその点で模範となって欲しいし、メディアには過大な報道で煽りたてることのないよう求めたい。既成施設の利用を重視しているかに見える舛添都知事には大いに期待している。

2014年12月5日金曜日

自民党の大差の勝利?

近ずく総選挙での自民党の獲得議席数は「300議席超す勢い」だという。最初は一つの新聞の調査に過ぎないと思っていたが、他の全国紙もほとんど同じ言葉で自民党の勝利を予測しているという。この時期の選挙自体は決して国民に歓迎されていないと聞いていたのに。選挙の最終結果を聞くまでは断定できないとはいえ、この予測はどういうことか。

最大の理由かどうかは別として、大きな理由はアベノミクスに対して野党が十分な対案を示していない( 示せなかった )ことにあるだろう。野党諸派のアベノミクス批判が最終的に正当化されるかは未だ何とも言えないが、企業収益の改善、それを受けての株価の大幅上昇、ベースアップでなくとも賞与金額の増加、失業率の低下、人手不足など当面の経済指標は一定の改善を示している。ノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツが言うように、長期のデフレ政策( というよりデフレ放置政策 )が事態を改善しなかった以上、アベノミクスは試す価値があったと言えるのだろう。株価上昇など一握りの資産家を利しただけとのメディアの批判は本当に正しいだろうか。近年の「貯蓄から投資へ」の長く続いた官民キャンペーンに乗った国民は少数とも言い切れない。失業率の低下や人手不足は正規雇用者の増加を必ずしも意味しないとはいえ、それらが非正規雇用者の立場(バーゲイニングパワー)を強める方向に作用することは否めない。彼らは本当にアベノミクスに反対だろうか?

要するに野党側は既成概念に安住して後手にまわったのであり、批判だけでは国民の支持を得られなかった( らしい)のではないか。もっとも結果次第では私は頭を丸めなければならない!

2014年12月1日月曜日

大川小学校の悲劇

NHKテレビで、生徒の死者74名、教員の死者10名(1名生存 )を出した石巻市の大川小学校の悲劇を特集番組で取り上げていた。避けようがない死なら兎も角、すぐそばに山( 険しいが)があるのに地震後50分間を無為に過ごした末の津波死は、残された家族にとって納得できないのは無理もない( 生徒からも教員からも山への避難を求める声は挙がったという)。遺族と市教委との話し合いは何度かあったが、23名の遺族が納得できないとして訴訟に踏み切ったという。

海により近い石巻市の他の小学校では集団被害は無かったという。悲劇の最大の原因が、海から4キロの地点まで津波が到達するとは予想できなかったことにあることは遺族もよく分かっているだろう。それでも三割強の親が訴訟に訴えたのは市教委も第三者検証委員会もどれほど迫られても教員側の責任を明言しなかったことにあろう。死者の責任を問いたがらない日本人の心性もあろうし、想像だが教員の責任を認めれば教員個人が賠償責任を求められることを危惧したのだろうか。

死亡した生徒の親であり自身現役の教員で、追求相手の市教委には元同僚もいるS氏は、自らの調査の一応の結果として、教員たちが山への避難により生徒たちが怪我したり泥まみれになったりすることを危惧した事なかれ主義があったと判断した (私の想像もそうだった)。何をそんな小さなことでと思うのは結果を知る者の傲慢かもしれない。もし生徒たちの何人かが怪我をしたのに津波が襲来しなかったら教員たちは非難されなかったかどうか。悲劇の下地に責任を追及したがる現代社会の非寛容化と、それに備える事なかれ主義を指摘するのは誤りだろうか。