2024年9月27日金曜日

真の2大政党へのスタート?

  ようやく、民主党と自民党の党首選びが終わった。どちらの党の党員でもない私は、むろん、指をくわえて見ているほかなかったが、私から見ると、少しは我が国の政治の前進が始まったかと思う(思いたい)。

 先ず、民主党の党首選。候補者はどなたも真面目に我が国の政治の改革を目指しておられるだろうが、党首が小粒と見られては選挙は絶対に不利。その意味では元首相の野田氏がベストだろう。「最大の政治改革は政権交代」との氏の発言はそのとうりだと思う。演説も上手と聞く。今後を大いに期待する。

 他方、自民党の9人の候補者のうち谷川陽子外相は立派な経歴からも、また我が国最初の女性首相の誕生という点でもぜひ党首に選ばれてほしいと思ったが、現在の自民党にはやはり無理な注文だった。それにしても、新聞が途中から石破、高市、小泉の三氏しか紙面で取り上げなくなったのには腹が立った。

 これで少しは日本の政治が前進すると期待したい。

追伸   前回のブログ(日付もテーマも忘れた)が当方のミスでタブレット端末から消えてしまった。今後はそうしたことが増えるのか.............。



2024年9月13日金曜日

 フジモリ元ペルー大統領の死

  ペルーのフジモリ元大統領が亡くなった。わが国の諸新聞の同氏評価も前半期の治安面での多大な貢献と後半期の民主主義のルールを逸脱した強権的政治の側面の指摘と、管見の限りではほぼ一致している。誤りではないが、私はフジモリ氏はもっと評価されてよいと感ずる。

 1960年代まで南米諸国ではクーデターが誇張すれば日常茶飯事だった。その代表格だったアルゼンチン人の級友に私がそうからかったら彼は、「いや、あれはミリタリーパレードだ」と弁解した。たしかに、白人支配層の間の政権交代の儀式のようなもので、じじつクーデターといっても流血の争いとなることは稀だった。

 しかしその後ペルーでは左翼の体制批判が暴力化、ゲリラ化し、同国では裁判官たちがゲリラの報復テロを恐れて彼らに重罪の判決を下すことを避けるようになり、混乱は深まった。フジモリ氏が大統領選に立候補したとき、ペルーの日本人たちは混乱に巻き込まれる事を危惧して反対だった。しかし、大統領となったフジモリ氏は貧民対策とテロ対策を果敢に実行し庶民の高い支持を得た。

 しかし、任期の後半では民主主義のルールに背くことも増え、復活を目指す白人支配層と左翼ゲリラの双方が反フジモリで一致するようになり、事態は当初日系人たちが恐れた方向に進んだ。結局は貧乏籤を引いたとも言える。いつか正当な評価を受けるよう願わずにはいられない。

2024年9月9日月曜日

日本人の「行きたいアジア」アンケート

  朝日新聞の土曜別刷のbe(9月7日)に5年半ぶりにアンケート調査の「be ランキング」が復活し、第一回は日本人の「行きたいアジア」がテーマだった。20位までの順位のうち上位は1 台湾、2 シンガポール、3ベトナム、4韓国 5タイ。以下、8香港、14中国などなど。

 私はタイと台湾は低運賃の南回りのヨーロッパ往復とネパール観光の中継地としてのバンコクと台北の空港に立ち寄っただけ。どちらも空港以外は知らない。一位の台湾の人気は日本からの近さも大きいだろうが、韓国はもっと近い。やはり、親日度が原因なのか。私も訪問できなかったことを心から残念に思う。4位の韓国は私の勤務先の大学で2〜3年間同僚だった韓国人教授の強い勧め(脅迫に近い!)と「冬ソナ」の故地の魅力で訪問したが、ほぼ満足。

 中国とヒマラヤ観光のネパールは観光目的で訪ねた。漢詩にうたわれる江南の春もよかったが、雲南省や四川省の巨大なスケールの自然も満足度は高かった。雲南省の大理(大理石の産地)のさらに北の長江が数十メートルの幅の激流となる虎跳峡など驚きそのものの光景だった。共産党の独裁が続く中国に共感は持てないが、文化も自然も満足度は高かった。

 最近ウクライナ軍が侵攻して名が知られたロシアのクルスクは史上は独ソの戦車戦(史上最大と言われる)で名高いが、ツルゲーネフの館の所在地でもあり、彼の『猟人日記』の舞台でもある。世界の多くの文化人が訪ねたトルストイの館のヤスナヤポリヤーナも遠くない。地下のご両人は何を思っているだろうか?

2024年9月2日月曜日

津田梅子の使命感

  このたび新五千円札の図柄に選ばれた津田梅子について、私も通り一遍の知識は持っていたが、磯田道史氏の軽妙な司会で知られるNHKの『英雄たちの選択』の津田梅子篇(8月6日)を見て改めて彼女の努力の跡を知った。

 6歳の彼女が明治の初年に山川捨松らと数人の女子留学生に選ばれ、11年間を米国で勉学に励んだこと。帰国後「女子英学塾」を開いて日本の女子教育に多大の貢献をしたことなどはよく知られている。私が新しく番組で知ったのは、彼女の父の津田仙も幕末の米国派遣留学生であったこと。帰国後の彼女が華族女学校の英語教師として勤めたことは知っていたが、その後の彼女が教育研修のため再び渡米し、米国の名門ブリンモア女子大で3年間生物学を研究し、指導教授と連名で生物学論文を発表していたこと。大学の研究者として残る道を断念して故国での教育者の道を選んだこと。帰国すれば米国での先端的研究を諦めることになると知りつつ日本での女子教育者の道を選んだ強い使命感に感じ入った。

 そうした決断はおそらく彼女だけではなかったろう。初代の東京女子大学長を務めた新渡戸稲造博士も米国留学中に日米間の不平等条約批判の演説に熱心だった。そこに男女の違いはなかった。両者が五千円札の図柄に選ばれたのは偶然だろうが。