80年前の6月6日の米軍主体のノルマンジー上陸作戦を記念する式典に旧連合国の指導者たちが集まった。あらためてこの作戦の規模と戦闘の激しさを思い出し、厳粛な気持ちになった。
1966年の6月、私はパリの国家文書館に日参するため安ホテルに泊まっていた。しかし、その年の復活祭のある数日間は先約の客に部屋を明け渡さなければならず、他のホテルに当たったがどこも断られ((復活祭休暇は旅行シーズンの始まり)、これを機会に地方を訪ねることにした。 シャルトル、オルレアン、モンサンミッシェルと泊まりを重ね、最後にノルマンジー上陸作戦の地アロマンシュを訪ねた。
のちにミシュランガイドのノルマンジーの巻が詳しいと聞いたが、当時は英国で入手したポケット版のガイドブックに、作戦名のオマハ海岸はアロマンシュという町とあり、行けば分かるだろうと簡単に考えていた。しかしフランス人がオマハの呼称など尊重するはずもなく、大いに迷った。しかし、曲折はあったが、最後には見渡す限り白い十字架(ときどきユダヤ人のダビデの星)が並ぶ広大な米軍墓地に出た。
なるほど上陸地点に選ばれる筈と思わせる広大な砂浜が広がり、それを見渡す小高い丘にあずまや風の展望所と米国旗の掲揚塔があった。この墓地の用地ははフランスから寄贈されたと聞く。戦後も何かと米国に楯突いたドゴール大統領も反対はしなかったようだ。
墓地では2組のアメリカ人家族を見かけたが、アジア人の私たちを見て怪訝な顔をした。当時は敵国人だった日本人としてちょっぴり居心地が悪かった。米国人としてはここはゲティスバーグにも比すべき聖地だろう。私は彼らに話しかける気にはならず、降り出した雨に追われて、まだ遠いパリに向けて車を発進させた。
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