こうした際の管理官の質問は滞在期間や滞在地や滞在目的など決まり切った質問なのだが、四十歳前後の「日本人紳士」は質問が全く理解出来ない様子だった。彼が私に答えた滞在目的は「機械を運転する」だった。恐らく日本から輸出した機械の試運転か修理のためと判断したが、私の直訳を聞いた管理官は労働移民と誤解したのか質問はより厳しくなった。この同胞の入国目的が機械の運転ならば、かれは大学の工学部出身でないとしても高校卒業生であることは疑いない。つまり六年間は英語教育を受けているのに入国手続きが出来なかったのである。私は暗い気持ちになった。
英語早期教育が話題となるたび、言語学者を先頭に「識者」たちが反対の声をあげる。語る内容が貧弱では駄目で、国語力や論理的思考力を磨くことこそ優先すべしというのが彼らの主張である。まるで外国語教育だけでは中身のない軽薄居士を作り出すだけと言わんばかりである。
しかし、国語力や論理的思考力の向上と外国語力の向上とはゼロサムゲームの関係にあると捉えるのは正しいのであろうか。かつてカリフォルニア州でメキシコ系移民の生徒たちに英語以外にスペイン語教育も導入しようとした際、米国人には英語を教えることこそ大切だと保守派が反対した。しかし、予備実験の結果はスペイン語教育も受けた生徒たちの英語力はむしろ高まったという。同じヨーロッパ系言語の間での結果と日本語と英語の間の結果が同じと決めてかかることはできないが、多言語の学習が生徒たちの知的好奇心を高めることは充分考えられる。英語早期教育を導入していると聞く中国や韓国は間違っているのだろうか。私にはそうは思えない。
意見が全く理解されないとき「共通の言葉がない」という言い方がある。もちろん比喩的な表現であるが、言語を共有することの重要性も示唆している。じっさい、どんなに立派な識見の持ち主でもその識見を開陳出来なければ無内容な人だと思われてしまう。世界に向けての日本人の発信力がますます重要になってきた時代に外国文化の咀嚼が第一だった時代の思考を引きずっていて良いとは思えない。